「生命」に含まれる重層構造
これまでの連載では「生命とは何か」という問題を、なるべく自然科学的な視点から扱おうとしてきた。それでも研究者によって意見は分かれるし、そもそも自然科学だけで定義しようとするのは無理がありそうだとわかってきた。では、どのような視点を取り入れればいいのか。
岩崎さんは、ある一般向けの講演(注5)で次のように語っている。
注5)「"生命をつくる"ということに関する2、3の補助線」http://nextwisdom.org/article/3131
生命に関しては少なくとも2種類の捉え方があると考えていて、一つは自然科学が対象としている生命です。たとえば、化合物の集合体として存在している物の中に、生き物の本質を見ようとする捉え方が代表的です。そこには特定の構造や、特定の振る舞い(生命を特徴づける性質)があるだろうと。よく言われているように、たとえば遺伝をしたり、膜によって内と外が分けられていたり、増殖機能があったり、進化したり、外とエネルギーや物質をやりとりしたり(代謝)というような性質ですね。(中略)
でも、僕たちが日常的に感じている「生命」は、何かこうした自然科学的な定義とは違う文脈で捉えられていると思うんです。赤ちゃんが生まれるとか、親しい人が亡くなるとか、親しくなくてもいろんな人に想いを寄せるとか。「命」を考えるときに、必ずしも自然科学的な枠組みで考えているわけではないですよね。どちらかというと、自分が自分以外の人や対象との関係性の中で育むような生命観があるわけです。(中略)
自然科学的な生命観では、生命性は対象の中に宿ります。でも、より日常的な場合の生命性はどこに宿るかというと、特定の対象と自分との関係性の中に生命性が宿るという感じになります。僕たちにとって「あ、生きてる」と思えたり、もっと主観的で情動的なものだったり。
これでも、まだ単純化しているのだと岩崎さんは言う。自然科学的な生命観にもいろいろとあることは、連載を通じてすでに述べた。一方の「対象との関係性に宿る」生命も、一筋縄ではいかない。もちろん、対象というのが人間なのか他の生物なのか、はたまた人工物なのかによっても変わるだろうし、同じ人間でも、親兄弟や友人と赤の他人とでは異なるはずだ。それらを平均化したような漠然とした「生命観」を想定してみても、常に揺れ動いている。
「たとえば生命とは何ですかという問いを立てたときに、誰に対して解答を出すのかによって、人間はたぶん答えをいろいろと変えてくる」と岩崎さん。
「生物学のレポートであればDNAとか遺伝とか何か膜に覆われてと書くけれども、科学的な素養とか教育を受けてない、たとえば親族とかおばあちゃんに対して命って何ですかと語るときには、まったく違う可能性があるわけですよね。そもそも僕らよりも30年40年長く生きてきた人に、命とは何ですかと言うのも、おこがましいところがあるわけじゃないですか。一方で、子供に対して語るときには、もう少し別の語りかたがあるわけですよね」
つまり個人個人でも、その時々の立場によって生命観は変わる。
「生物学を極めた人間が生命の見方を自然科学的な見方だけに集約して、それ以外の生命観をバッサリ捨ててるんだったら話は非常にシンプルでよいんだけど、そういう人のおそらく99.9%は、生命科学的ではない別の死生観をパラレルにずっと抱え続けてるわけですよね。子供に接するときには、ある種の別のタイプの生命観を表出するし、同僚の同じ生物学者が死んだときも、やっぱり手を合わせて何かやると。それは科学的にはとても非論理的なことなので、そこではやっぱり別の生命性を持ちだしているとしか言いようがないし、それは実験生物慰霊式の現場にも現れてくる」
「自分の中にある複数の生命性みたいなものに関する、人間が培ってきた文化というものを、僕らは全部受け継いじゃってるので、自分の行動規範とか行動様式に溶けこんでいるさまざまな生命に関するイメージというものが、状況によっていろいろと顔を出すんだと思うんですね」