まだ見ぬ人工生命の「お墓」を建ててしまった風変わりな生命科学者、岩崎秀雄さんは世界的な業績をあげている一方で、意表をつかれる一面も持っています。「切り絵作家」というアーティストでもあるのです。
切り絵と人工生命、まったく関係なさそうですが、この人の中ではつながっているようで、聞いていると、切り絵の話なのか生命の話なのか、わからなくなってくるほどです。
でもそのうち、『「生命について考えること」って何だろう?』ということを考えさせられるような、なんとも不思議な気持ちになってくるのです。
数々の切り絵作品もご覧になりながら、しばしの間、生命と非生命の間を「たゆたって」(岩崎さんの好きな言葉)みてください。
慰霊に値する生き物とは?
前回(「人工生命に慰霊碑と花束を(前編)」)紹介した常陸太田市の「人工細胞・人工生命之塚」にからめて、それを建立した早稲田大学 理工学術院教授の岩崎秀雄(いわさき・ひでお)さんは、人工細胞や人工生命の研究者たちに「慰霊に値する生き物とは何か」という問いかけをしている。
それを記録したビデオの中で、ある人は「大腸菌くらいにまでシンパシーを感じるが、慰霊するとなったら哺乳動物くらいから」と、まず答えた。「遺伝的に哺乳動物くらい近いと、そういうセレモニーをやってもいいかな」とも言っている。
しかし、その後で「自分のつくった人工生命が死んだら悲しいか」と聞かれると、「もちろん悲しい。いちばん愛情を注いでいるかもしれない。親のような気持ちです」というように答えた。そこで「親のような気持ちだったら、慰霊をするのでは?」と問われると、笑いながら「そうですね」とうなずいている。
これはまさに「生命」が何層かのケーキになっており、科学者といえども無防備なときには、そのあちこちをつまみ食いしていることを示している。非常に人間的な反応だ。
読者の皆さんにも前回、アンケートで同じ質問に答えていただいた。11月12日現在で回答数が12件と伸び悩んでいるため、今のところ、あまり傾向を云々することはできそうにない。回答例として挙げた項目の全てが、7人以上の人に選択されていた。比較的、多いのは「人間」「全ての生物」「大事にしていた人形や道具などの人工物」である。
「その他」として記述してもらった回答には「情や手間を込めたもの」「無事を祈れる対象全て」「物語の登場人物」「長く身の回りにあった、生活や仕事を共にしたモノ」などがあった。作家という立場からすると「物語の登場人物」が慰霊の対象になっているのは面白い。文字だけで創られたキャラクターも、一種の人工生命になりうるのだろうか。
典型的ではない学者一家
さて、このように意表を突くアート作品で、研究者などから面白い反応を引き出している岩崎さんだが、ご自身はどういう経歴の持ち主なのだろう(写真1)。
伺ってみると、まずご両親が科学者で、どちらも専門は結晶学だった。また母方のお祖父さんは工学者で、戦闘機などの開発に関わっていた可能性があるという。
そしてお兄さんは生化学者で、超好熱古細菌などを素材にした研究をしている。第10回に出てきた「鉄硫黄タンパク質」のような酵素について、その構造や機能の進化を調べているというから、生命の起源と無縁ではないはずだ。実際、お兄さんの師匠は、日本の生命起源研究ではパイオニアと言える共和化工環境微生物学研究所名誉顧問の大島泰郎(おおしま・たいろう)さんである。そして兄弟弟子の一人は、第1回から第3回までご登場いただいた東京薬科大学教授(当時)の山岸明彦(やまぎし・あきひこ)さんだ。いろいろとつながっている。
岩崎さん自身が生物に本格的な興味を持ったのは、高校生のころらしい。顕微鏡で見たカビの美しさに魅せられ、自分で培養しては、図鑑で調べたりしていたという。これが、また面白い「つながり」に気づくきっかけになった。
「カビの培養をしているうちに、あるとき、得体の知れない物がシャーレの中に出てきて、顕微鏡で見たらもの凄い動いてるんですよ。ドワーッと、粒子が――。これは何なんだろうと調べたら、実は変形菌(粘菌)というものだとわかった。それから野外の変形菌を集めて培養するというのに、少しはまったんですよね」
そして関連の文献を読んでいるうちに、変形菌の研究と言えば日本の博物学者、南方熊楠(1867~1941)が有名で、多くの標本や図譜を残していると知った。すると驚いたことに、岩崎さんの曽祖父が和歌山県の田辺町(現田辺市)の人で、熊楠の隣人だったことがわかった(写真2)。
「紀州の国学の家だったので、本がいっぱいあったらしく、それを熊楠に貸しだしたりしていたようです。あと曾祖父自身は小学校の先生だったんですけど、自分で紀州の植物や魚の分類学とか博物学をやってた人なんですよね。だから紀州の魚類の図譜を出したり、植物誌を出版したりとかしてたんです。そのときの費用を、熊楠の取りなしで、紀州徳川家からもらったりしていたみたいですね」
何だかすごい話だ。普通なら「典型的な学者一家に生まれて」とか書くところだが、典型的じゃないので書けない。DNAだけでは済まない何かが、連綿とつながっている気がする。
そういう家筋であることに、岩崎さん自身はだいぶ複雑な思いを抱いていた。
「科学というものがとても不思議な、一種の権威性を持っているという感覚がありました。親はべつに科学は素晴らしいとよく言ってたわけでも、科学者になれと言っていたわけでもないんだけれども、何か科学の不思議な存在感みたいなのをずっと感じていた」
という。
自身が科学者になったのも「自分でほんとに選んだと言えるのかどうか、自信がないです」と言っている。
しかし、ある種の反抗心もあったのか、ストレートに科学者を目指したわけではなかった。むしろ「科学とは何か」というところに興味がわいて、科学史や科学哲学に関する本を読み漁っていた時期もある。また中学のころからオペラなどが非常に好きで、声楽家になろうと芸術系の大学を目指したこともあった。結局、諸般の事情で断念したが「断念してしまったこと自体、才能がなかったということでしょう」と語っている。
しかし芸術的な分野では、別の出会いがあった。
「7歳ぐらいのとき、台湾に出張した母親が切り絵を買ってきてくれたんです。僕はすぐに、それを真似しはじめました」と岩崎さん(写真3)。そのまま創作を続けて高校生くらいになると「(日本における)切り絵の受容のされかたというのに、違和感を感じるようになりました。その違和感を解消するにはどうすべきか、どうしたら切り絵というものが、もう少しちゃんとした現代美術になり得るのかを17~19歳くらいまでの間、ずっと考え続けました」
かなり早熟な高校生だったのではないだろうか。とはいえ、その成果が今の芸術活動につながっている。実際の切り絵作品については後ほど紹介しよう。