2024.06.13
# 教養

「胸をあらわ」にして電車を降りようとする母親の姿も…「大正時代」の路面電車の「今では考えられない光景」

座席で足を広げる、携帯電話で通話する、優先席を譲らない、満員電車でリュックを前に抱えない……など、その「ふるまい」が人の目につきやすく、ときにウェブ上で論争化することも多い、電車でのマナー違反。

現代人は、なぜこんなにも電車内でのふるまいが気になり、イライラしたり、イライラされたりしてしまうのか?

そんな疑問を出発点に鉄道導入以来の日本の車内マナーの歴史をたどり、鉄道大国・日本の社会を分析した 『電車で怒られた! 「社会の縮図」としての鉄道マナー史』(6月19日発売・光文社新書)を、日本女子大学教授・田中大介さんが上梓する。

現代人のマナー意識を形作る、「気遣いの網の目」を解きほぐしつつ、丹念に鉄道マナーの歴史を追う本作から、エポックメイキングな出来事などを分析した一部を紹介する。

※本記事は田中大介著『電車で怒られた! 「社会の縮図」としての鉄道マナー史』から抜粋・編集したものです。

荷風が書いた騒がしい路面電車

路面電車が都市内の交通機関として現れたのは、1895年に京都電気鉄道が開業されて以降のことである。東京では1903年に東京馬車鉄道が電化することで東京電車鉄道が設立され、大阪でも同年に電車が開業している。

その後、東京では、東京市街鉄道、東京電気鉄道の二社も誕生している。この民営三社によって東京の路面電車網が広がっていくが、1906年には三社が合同して東京鉄道となり、1911年に市営化され、東京市電となった。

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その他、主要都市にも1910年前後に路面電車が開業しており、1920年代にバス・タクシーが本格的に実用されるまで、「路面電車はほとんど唯一の近代的な都市交通機関」であった(和久田康雄「都市交通の近代化と郊外電鉄の発展」〈『日本の鉄道』日本経済評論社、1986年〉)。

路面電車網が都市インフラとして定着していった1908年(明治41年)、永井荷風はエッセイ風の小説「深川の唄」で、四谷見附から築地両国ゆきの路面電車の風景を描いている。

 

軍人1人、兵卒2人、女学生2人、請負師風の男1人、商人3人、老芸者1人が乗り合わせており、のちに赤子をおぶった母親、野球道具をもった少年2人などが乗車してくる。3時過ぎなのでそれほど混んでいない。「一同黙っていずれも唇を半開きにしたまま遣り場のない目で互いに顔を見合わしている」ように、多様な人びとがお互いみつめるでもなくみあっている車内の光景は現在でもみられそうである。

しかし、その後に描かれている電車内の風景は、現在の東京からみるとずいぶん騒々しい。老芸者は、ちゅうちゅうと音高く虫歯を吸っている。請負師がういーっと大きな欠伸をする。途中で乗車した母親の背負う赤子が突然泣き出す。乗客たちが激しく泣く子をみるなか、女性は肌をあらわにして授乳をはじめる。赤子が泣き止んだとおもえば、車掌が母親に乗り換え場所についたことを注意する。母親は乳房をぶらぶらさせたままあわてて降車しようとするが、乗車するひととぶつかり合って、おむつを落としてしまう。赤子は泣き出すし、母親は踏まれないように死に物狂いで叫びだす。

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