2024.07.11
# 幕末武士 # 醤油 # 万延元年遣米使節団

幕末武士が初めて食べた豪華西洋料理を酷評! 万延元年遣米使節団員の正直な感想

『航海日記』『航米日録』より

江戸時代の人々も、西洋の料理を全く知らなかったわけではない。しかしもちろん、本場の料理を食べていたわけではなかった。江戸幕府が1860年に派遣した万延元年遣米使節団の団員たちは、初めてのアメリカで何を食べ、日記に何と記したのか(ここでは原田信男『日本料理史』から一部編集のうえ引用する)。

近代化しても、衣食住は変わらない

日本近代化の契機となった明治維新は、すでに天保の改革から準備され、尊皇攘夷から尊皇倒幕へと進んで、大規模な革命が成就をみた。そして日本近代は、何よりも西洋文明を採り入れることから始まった。まさに和魂洋才・殖産興業・富国強兵といったスローガン通りに改革は進行していった。

欧米を視察して外国の知識人を雇い、留学生を派遣して社会のシステムと技術を学び、工業を中心に産業を興して資本主義化を図り、強力な軍隊を組織して侵略のための戦争を遂行した。

そうした過程で、人々の生活文化も、欧米寄りのスタイルを模索した。しかし国家指導の政治体制や経済システムとは異なり、衣食住といった人々の身の回りの雑事は、表面的には変化を見せるが、その根底から改変することは容易ではなかった。[中略]

横浜海岸鉄道蒸気車図:歌川広重(三代)画

アメリカに渡った使節団

江戸時代人は異国料理を知っており、西洋の食生活についても全く無知ではなかった。しかしポルトガルの料理は、長い年月の間に著しく変容して日本化しており、オランダ料理に触れることができたのは、長崎出島関係者や蘭学者たち一部の人間であった。しかも、これらは日常的な日本の食事のなかで、たまたまひととき西洋風の料理を楽しんだにすぎない。

ところが、一定の準備期間を経た上で、毎日、本物の西洋料理を強いられた人々がいた。ペリーの黒船艦隊の威圧の下で結んだ日米和親条約を承けて、安政五年(一八五八)には日米修好通商条約が結ばれた。この批准書交換のため、安政七年、米艦ポーハタン号に乗ってアメリカへと旅立ち、アフリカ喜望峰を回って帰国した一団があった。

古くは天正遣欧使節の例もあるが、漂流民などを別とすれば、ほぼ九ヵ月にわたって西洋料理を食べ続け、記録に残したのは、この遣外使節団がはじめてであった。

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