5月の光る波と「ウイルス」の贈り物
30年後のナノワールド物語この連載では、非常に小さくて、場合によっては目にも見えないような「ロボット」や「人工知能(AI)」をつくる研究を追いかけています。材料には主にデオキシリボ核酸(DNA)やタンパク質、脂質といった生体物質が想定されています。これらには化学エネルギーで効率よく機能し、人体にもなじみやすいという特徴があります。
第13回と第14回では「ペプチド」という短いアミノ酸のひもを使って、光から逃げる細菌のような微小球や、ウイルスのレプリカをつくったりする試みを取り上げました。今回は、それらを取材する過程で得たアイデアやヒントをもとに、約30年後の未来を「妄想」してみました。物語形式で書きましたので、気楽に読んでみてください。内容はフィクションであり、実在する人物や組織、研究プロジェクト等とは一切、関係ありません。
夜の海岸に立つ2人
漆黒の海に、コバルトブルーの波が立っていた。明るさを微妙に変えながら、次々と海岸に打ち寄せてくる。じっと眺めていたら、催眠術をかけられたかのように頭がくらくらしてきた。幻を見ているみたい。
夜光虫が大発生していた。それが波の刺激を受けて、青い光を放っている。こんな風景が見られたのは、この海岸では6年ぶりのこと――奇跡の復活だった。
私、松原和美(まつばら・かずみ)はウェットスーツに身を包み、波打ち際に立っている。顔には水中マスクをつけ、首からは小型の人工エラを下げていた。隣には同じ装備の女性がいて、ちょっと不安そうな目を、こちらに向けている。私はにっこりと微笑みかけた。
あわや絶滅かと言われていた夜光虫を救ったのは彼女だ。でも生物学者や海洋学者ではないし、そもそも救おうと考えていたわけでもない。近所で小さなスイーツ店を営む、ごく普通の女性だった――名前は網野洋子(あみの・ようこ)さん。
私が彼女と出会ったのは去年の5月、ちょうど1年前になる。この海岸とは岬を隔てて西隣にある、小さな入り江だった。
ピンクの液体を流す女性
その時も私はウェットスーツ姿で、浅瀬を泳いだり潜ったりしながら、海水や泥などのサンプルを集めていた。初夏とはいえ、水温はまだ高くない。海中は明るかったが、枯れた海藻の切れ端が漂って、どことなく寂しげな景色だった。
冷えてきたのでサンプリングを切り上げ、ゴロタ石の海岸に上がってくると、洋子さんがいた。Tシャツに膝丈のハーフパンツという出で立ちで、寄せる波にサンダル履きの足を濡らしている。彼女は手にした2リットルのペットボトルから、ピンクがかった液体を海に流していた。
マスクとスノーケルを外した私は「こんにちは」と声をかけた。洋子さんも振り返って、白い歯を見せた。たぶん私より少し上、30歳前後だろう。入り江には私たち二人以外に人影はなかった。
「何を流しているんですか」
「ああ、これ?」洋子さんは空になったペットボトルを振った。「夜光虫なの」
「夜光虫!」私は思わず声を上げた。「どこで採ってきたんですか」
「もともとは、この入り江よ。それを家に持ち帰って飼ってるんだけど、増え過ぎちゃって、時々、間引きしてるの。でも殺すのはいやだから、ここに戻してるわけ」
「夜光虫、飼ってるんですか。お家で、水槽に?」
洋子さんはうなずいた。
「珍しいですね」
「そうかしら」彼女は小首を傾げ、なぜかちょっと遠くを見る目になった。「まあ、そうかもね……」
「あの、もしご迷惑でなければ、見せていただけませんか」
「夜光虫? ああ、もちろん。あたし、この近所で手作りのスイーツ売ってるの。よかったら、それも見ていって」
「あ、手作りスイーツ大好きです」私はいそいそと水から上がり、ウェットスーツのジッパーを下ろした。「すぐ着替えますから」
「ううん、そのままついてきて」洋子さんは海に背を向けると手招きした。「あたしのところで温かいシャワーを浴びて、着替えればいい。唇がちょっと青いし」
「えっ、いいんですか。ありがとうございます!」