「深海の科学」を聞く
第3回(最終回)
物理学と生物学
深海・超深海のサイエンスをわかりやすく描いた『なぞとき 深海1万メートル——暗黒の「超深海」で起こっていること』(講談社刊)の著者に聞くシリーズ。第3回は海洋生物学者の窪川かおるさんに深海生物の生きざまを聞いた。
窪川かおるプロフィール
帝京大学先端総合研究機構客員教授。東京都生まれ。早稲田大学大学院で物理及応用物理学専攻博士課程修了。東京大学海洋研究所先端海洋システム研究センター教授などを歴任。
山根 最初に伺いたいんですが、窪川さんが学位をとられた「物理及応用物理学」は生物学とどういう関連が?
窪川 不思議に思われるでしょうね。私は物理学の観点から生物の生態、現象を理解することに惹かれていました。
とくに注目したのは、繁殖を司るホルモンの作用機序です。たとえば北海道のエゾサンショウウオは、雪解けの0℃に近い冷たい水の中で産卵します。エゾサンショウウオは変温動物なので、その体温も下がってしまいます。なぜそれほど水が冷たい時に産卵できるのでしょうか。
私たちのような恒温動物は、低温ではホルモンが働かないけれど、エゾサンショウウオのホルモンは低温でも働くのかもしれない。そう考えて、ホルモンの働き方を様々な動物で比較しました。その解析に熱力学の方法を使ったわけです。エゾサンショウウオのホルモンは0℃付近でもっともよく働くことがわかりました。
東京近郊のアズマヒキガエルがなぜ水場、池を見つけられるのかという研究も10年ほど続けていました。
山根 昨年、私の隣家の小さな水を張ったプランターで鳴いているアマガエルを見つけ、捕獲、今も飼育中なんです。自然の水場など皆無の東京23区内の住宅密集地にアマガエルがいて、小さなプランターという水場をどう探し当てたのか不思議で不思議で。
窪川 生物は謎だらけです。多様性が豊富で生理現象も複雑多岐ですが、温度や圧力など物理的な条件から生態を解明する研究に魅力を感じていました。
エゾサンショウウオでいえば、低温で活性を持つ生体内物質があるはずと考えて、50種以上の脊椎動物で生殖を司るホルモンの比較研究をしていました。最近は、ホルモンのような調節分子の作用がとても複雑だということがわかってきています。
山根 ホルモン作用のメカニズムの解明が大変でしょ?
窪川 ええ。ホルモン作用は非常に複雑で、たとえばメカニズムのたった1ヶ所が少し変わるだけでも全体に影響をおよぼすので、実験計画を組み立てることすら難しいんです。このホルモン作用について、エントロピーや運動エネルギーなど物理学的な視点から解明できないかと取り組んでいました。
東京大学の海洋研究所(現・大気海洋研究所)に就職してからは、サケが産卵のために自分の産まれた川に戻って来る理由を解明せよ、という課題を与えられました。初めて研究船に乗り、初めてサケを獲り、その調査研究はいわば「修業の場」でしたよ。
ナメクジウオとは?
山根 「ナメクジウオ」の研究を続けられてきたそうですが、どんな魚ですか?
窪川 ナメクジウオは日本のごく限られた沿岸域に生息している生物で、脊椎動物のご先祖さまに近い動物です。体長は3〜5cm。シラスのように見えますが、魚でもナメクジでもないんです。
山根 魚じゃない!? ナメクジウオを珍味として専門に獲る漁師さんがいると聞きましたが。
窪川 中国では戦前までナメクジウオ漁がありました。私は愛知県赤羽根漁港のNさんの船で採集しています。Nさんは、生息場所が一発でわかる凄腕の漁師さんです。
ナメクジウオは進化上きわめて原始的な脊索動物で、生物分類では脊索動物門頭索動物亜門に入ります。脊椎動物は、脊索動物門脊椎動物亜門に分類されるので、遠い親戚といえます。背骨はなく、目も鼻も耳もない。しかし視覚の役割を持つ光受容体があるなど、嗅覚や聴覚に相当する機能は備えています。
窪川 ナメクジウオは、5億3000万年前のカンブリア紀に脊索を持っていたピカイアに似ています。この脊索動物が進化して脊椎動物が生まれたと考えられており、脊索を持つ現生のナメクジウオも、私たちヒトの祖先と近い関係でもあるわけです。
山根 生物の進化を解き明かすということでは、ナメクジウオの研究は深海の熱水噴出孔の生物研究に通じますね。