分子の手紙とシャボン玉の封筒
30年後のナノワールド物語(第3話)生物の体を構成する主な分子には、水の他にタンパク質や核酸(DNAやRNA)、脂質、糖質などがあります。よく話題になるのはタンパク質と核酸です。しかし最近は、あまり目立たなかった脂質にも、驚くべき性質があるとわかってきました。
脂質は細胞を包む細胞膜の材料です。通常は膜の表面や内部にタンパク質や核酸があって、代謝や増殖といった生命活動を担っています。しかし条件によっては、空っぽの膜だけでも外から物質を取り入れて中に溜めたり、分裂して増えたりできることが明らかになってきました。もしかしたら地球の生命は「膜」から誕生したのではと考える研究者もいます。詳しくは本連載の第7回と第8回を参照してください。
- 第7回〈無生命でも増殖する"人工原始細胞"の誕生〉https://gendai.ismedia.jp/articles/-/91638
- 第8回〈極小の「マンション(豪邸)」で迫る生命の起源〉https://gendai.ismedia.jp/articles/-/91636
脂質膜はミクロサイズの「分子ロボット」をつくる材料としても注目されています。今回は、そのような技術が発展した、約30年後の未来を妄想してみました。物語形式で書いてありますので、気楽に読んでみてください。なお、この物語に書かれている内容は全て著者の想像であり、特定の研究者や研究機関の見解や予想に基づくものではありません。
植物の言葉
あっ、こんにちは。いいお天気ですね。ずっと日なたで庭仕事をしていたら、汗ばんできましたよ。あなたも、ちょっとそこで涼んでいかれませんか。まあまあ、そう遠慮なさらずに、どうぞお入りください。何もありませんが、冷えたお茶やお菓子程度は、お出しできます。実は私も小腹が減ってましてね。
いやいや、大した庭じゃありませんよ。まあ、それなりに手入れはしてますがね。ええ、イギリスの庭園みたいなのは大変なんで、そのへんの雑木林の雰囲気にしてます。あの白い花ですか? ヒメシャラです。ちょうど咲き始めたところでね。涼しげでしょう。秋になれば紅葉して、それはそれできれいなんです。
はいはい、ヒメシャラの陰で、ウッドデッキに座っているのは娘です。皆さん、庭よりはまず、あの娘に目を留められますね。ははは。いや、あなただけじゃないですよ。我が子ながら、器量は悪くないと思ってます。ただ、ちょっとね……私がかわいそうなことをしたもんだから、あまり人と話したがりません。
ああ、わかりましたか。そうなんです。あの娘が抱いてるのは、本物の赤ん坊じゃありません。木でできた人形でしてね。それを日がな一日、あんなふうにあやしてます。そりゃ気になりますよね。後で、わけをお話ししましょう。
さあ、そこのベンチに腰かけてください。テーブルの向こう側にどうぞ。いい木陰でしょう。この木はオニグルミです。昔からここに立ってたやつでしてね。この下にいると、蚊に刺されにくいんですよ。どうも、こいつの葉っぱから出てる物質が、追っ払ってくれるみたいです。
ええ、本当ですよ。植物っていうのは動かないもんですから、おとなしく見えるかもしれませんが、なかなかどうして積極的な生き物です。えっ、あまり同じ生き物って感じがしない? まあ、たまにそうおっしゃる方はいらっしゃいますね。でも我々とさほど変わりませんよ。おしゃべりですし、喧嘩もすれば、仲良くもする。
植物の言葉ってのは、だいたい匂いです。空気中に出す化学物質ですね。それで花粉を運んでくれる虫を呼び寄せたり、害虫を追っ払ったりする。もちろん花の色や形なんかも関係ありますがね。
ちょっと複雑になると、例えば葉っぱを何かのイモムシに食べられたとします。すると植物によっては、単に千切られたりした時とはちがう匂いを発します。この匂いがイモムシの天敵を引き寄せたりするんですね。いうなれば「SOS」を出すんです。一方で、このSOSの匂いが別の植物に届くと、今度はその植物がイモムシに食べられないように身構えたりします。葉っぱの中に毒を集めたりしてね。
そういう例は枚挙にいとまがありません。耳には聞こえませんが、この庭にも木や草の声が飛び交っていますよ。それは我々に馴染みのある現実とはちがう、もう一つの世界ですね。電子ではなく分子の「メタバース」とでも言ったらいんでしょうか。
ミクロの封筒
もっと高度になると、匂いじゃなくて「マイクロRNA」の手紙を書いたりします。ええ、植物がです。RNAは我々の体でも遺伝情報の伝達に使われたりしますが、そいつの非常に短いやつですね。そのマイクロRNAやタンパク質を、やっぱり目に見えない小さな封筒というかカプセルに入れて、別の植物に届けたりすることがあります。「エクソソーム」と呼ばれますがね。
カプセルになっているのは「リン脂質」っていう分子が2層にぎっしり並んだ膜です。「脂質二重膜」と言ったりもします。これは細胞膜でも全く同じです。ほら、ちょうど娘がシャボン玉を飛ばして、赤ん坊をあやそうとしてますね。あのシャボン玉もリン脂質じゃありませんが、界面活性剤の二重膜なんです。あれのうんと小さくて目に見えないような袋に、タンパク質やRNAが入っている。
エクソソームは動物でも植物でも、体内の多くの細胞から出ています。それは通常、その個体の中で、細胞どうしのコミュニケーションに使われています。ですが周囲に水のような液体があれば、一部は外に出て他の個体に届くこともあるようなんです。すると、その中のマイクロRNAによって、届いた相手の細胞にある遺伝子の発現が、変えられる場合があります。
最初にそのような現象らしき例が見つかったのは、シロイヌナズナという草でした。30年ほど前ですかね。その後も、何種類かの植物で確認されています。まれに植物と動物との間でも、エクソソームのやり取りはあるようです。
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