日本の一介の恐竜ファンが、中国の恐竜事情を愛(め)でるときの切り口はいくつかある。まず、最新の研究動向を追いかけるというオーソドックスなパターン、羽毛恐竜やティタノサウルス類などのホットな「中国の恐竜」に魅せられるパターンなどが考えられるのだが、もうひとつマニアックな切り口がある。
それは中国国内の研究がまだまだ低調期だった1980年代ごろまでの、黎明時代の恐竜研究史や発見史をあえて掘り下げることだ。西側先進国と比べて経済的にも科学研究の水準でも立ち遅れを余儀なくされていた往年の中国で、社会主義革命や文化大革命をはじめとした政治の荒波に揉まれつつ、必ずしもすぐに「役に立つ」とは限らない恐竜研究に邁進した人たちの姿がグッとくるのだ。
そこで今回、詳しく取りあげてみたいのが楊鐘健(C.C.Young)だ。中国恐竜学の泰斗にして、マメンチサウルスやチンタオサウルスをはじめとした数多くの中国恐竜たちの名付け親である。
彼についてはこれまで、本連載でも(なんと第1回から)名前がしばしば出てきたにもかかわらず、本人についてはあまり掘りさげてこなかった。今回は「中国恐竜学の父」が、その称号を得るにいたった人生そのものを取りあげてみよう。
政治青年、古生物学者になる
清朝末期、楊鐘健(1897~1979)は陝西省東部の龍潭堡(現在の渭南市華州区蓮花寺鎮)で生まれている。父の楊松軒は辮髪や纏足の廃止運動をおこない、孫文の中国同盟会にも加入していた有名な思想家・教育者だったので、当時としては相当モダンかつ教育熱心な家庭に生まれたようだ。
地元で教育を受けた後、1919年に北京大学地質学部に進学。在学中は学生運動の五四運動に参加し、マルクス主義研究サークルに入り、卒業時には(まだ中国共産党に親和的だった時期の)中国国民党に加入する。若いころの楊鐘健はかなり政治的で、かつラディカルだった。
仮に中国国内に残っていた場合、政治家になった(もしくは共産党シンパとして処刑されていた)可能性も高そうな彼が古生物学者への道を歩んだのは、ドイツのミュンヘン大学で古脊椎動物学を学んだためだ。彼が1927年に発表した中国の哺乳類化石についての博士論文は、中国人が史上最初に書いた古生物学の論文とされている。
1928年に帰国したときはすでに国共内戦がはじまっていたが、無事に国民政府の中央地質調査所新生代研究室の副主任に就任。周口店での北京原人の発掘を指導したほか、中国での第四紀の哺乳類や化石人類の研究で業績を残している。1934年ごろまでの楊鐘健は哺乳類化石の研究者であり、中国におけるこちらの分野についても、草分けの人物だった。
日中戦争で恐竜研究が進展
楊鐘健と恐竜の縁が深まった理由には、意外なことに日本が関係している。日中戦争によって日本軍が中国の主要都市を侵略したことで、国民政府は内陸部に撤退。これにともない知識人も疎開し、楊鐘健は雲南省昆明につくられた西北聯合大学に移動し、現地で研究を継続する。
結果、怪我の功名というべきか。四川盆地の自貢や雲南省の禄豊といった西北部の恐竜化石の研究に端緒がつきはじめた(これらの地域は現在でも、中国の「恐竜の郷」としてよく名を知られている)。
自貢のオメイサウルス・ジュンシエンシス(栄県峨嵋龍:Omeisaurus junghsiensis)や、禄豊のルーフェンゴサウルス・フェネイ(許氏禄豊龍:Lufengosaurus huenei)は、楊鐘健が報告した中国恐竜学史上でも最初期の恐竜たちだ。禄豊ではジュラ紀の獣弓類のビエノテリウム・ユンナエンセ(雲南卞氏獸:Bienotherium yuannanese)など、恐竜以外の中生代の生物についても報告している。
その後、楊鐘健は1944年にアメリカに渡り、2年後に帰国。やがて社会主義革命が起こり国民党政権は台湾に拠点を移すが、楊鐘健は若いころに共産党シンパだった関係からか、中国大陸に残留して南京で「解放」を迎えることとなる。