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"小さなガリレオ"の受難
最近、こんな投稿がSNS上で話題になっていた。小学3年の理科のテストで「時間がたつとかげの向きがかわるのはなぜですか」という問題が出され、「地球が回るから」と答えたところ、バツをつけられたというのだ。
教師がテスト用紙に赤字で書き込んだ正解は、「太陽が動くから」。「学習したことを使って書きましょう」というコメントも添えられていた。この理不尽な仕打ちを受けた小さなガリレオの気持ちを思うと、私の心は痛む。
小・中学校における教員の労働環境が問題視されている昨今である。その教師も採点に十分な時間が割けず、つい機械的に処理してしまったのかもしれない。それでもやはり、この解答を不正解とするべきではないだろう。
三田一郎著『科学者はなぜ神を信じるのか』に興味深い逸話が紹介されている。17世紀、地動説を説く『天文対話』を出版したガリレオを異端審問にかけたのは、教皇ウルバヌス8世。だが実は、ウルバヌス8世は枢機卿の頃、地動説の熱心な支持者であり、ガリレオとは宇宙について語り合う仲だったというのだ。
要するにこの教皇は、自身の理性や昔の友情よりも、「教会」の権威を保つことを選んだのである。前述の教師もまた、自らの判断や子どもの自由な考えよりも、「学習指導要領」という権威を重んじたわけだ。
体制や政権の維持、イデオロギーや政策の実現のために、科学が歪められる。真実が踏みつけにされ、間違った方向に舵が向けられる。歴史を振り返ってみても、それはけっして珍しいことではない。
政治家たちは、自分たちに都合のよい”学説”を拾い上げ、陰に陽に肩入れする。研究者の中にも、ときに科学的な正当性をないがしろにしてまで、政権の中枢に接近していこうとする者が現れる。動機は本人の思想・信条だけでない。権力への志向や研究費の獲得という側面も見え隠れする。
彼らの目論見が成功したときの被害は甚大だ。科学の歩みがそこで大きく遅れるというだけではない。社会全体に誤った自然観が植えつけられることさえある。客観性を装った科学者の言葉は、政治家のそれよりも容易く人々に信じられてしまうのだ。
イデオロギーが世界を牛耳っていた時代に起きた、有名な事例がある。「ルイセンコ事件」だ。
イデオロギーに毒された科学
事件の舞台は1930年〜60年代の旧ソビエト連邦。主人公は農学者のトロフィム・ルイセンコである。ルイセンコは、秋まき小麦の種を低温で保存してから春にまくと(春化処理)、春まき小麦よりも収穫が増えると主張し、農業生産性の低さに悩まされていたソ連政府から注目されるようになった。
この主張自体、再現性も根拠もないニセ科学だったのだが、ルイセンコは独自の学説をさらに拡張していく。当時すでに世界で定説となっていたメンデル流の遺伝学(生物の遺伝的性質は遺伝子が決定する)を否定し、獲得形質は遺伝する(遺伝的性質は環境や学習によって変化する)という主張を繰り広げたのだ。
そして、1940年。ルイセンコは、ソ連科学アカデミー遺伝学研究所所長で遺伝学の第一人者、ヴァヴィロフを失脚させることに成功し、その後任におさまった。ソビエトの生物学界を実質的に支配するようになったのである。
ルイセンコ学説がスターリンら共産党首脳部の支持を得たのには、イデオロギー的な理由があったといわれている。その時代、政府の御用学者たちは科学理論の中身にまで階級闘争を持ち込み、あらゆる学説を「ブルジョワ科学」と「プロレタリア科学」に色分けしようとしていた。
メンデル流の遺伝学は、機械論的、観念論的なブルジョワ科学。一方のルイセンコ学説は、生物が環境との相互作用によって“自己発展“していくという点でマルクス主義的であり、唯物論的弁証法を体現するプロレタリア科学の範例とされたわけである。
第二次大戦が終わり、冷戦が始まると、ルイセンコは科学アカデミーにおけるスターリンと化した。正統な遺伝学者など、自説に反対する科学者たちを「反動的」であるとして吊るし上げ、次々と追放していったのだ。
主導する農業計画が何の成果も上げなかったにもかかわらず、ルイセンコは30年近くにわたってソ連生物学界に君臨し続けた。実験データ改ざんなどの疑いで政府の委員会に告訴され、遺伝学研究所所長を解任されたのは、1965年。
その間停滞していたのは農業だけではない。急速な進歩をとげていた西側諸国の遺伝学から、ソビエトの生物学界は完全に取り残されてしまった。政治とニセ科学を結託させてしまったがために、大きな代償を払う羽目になったのである。