最小哺乳類システム
このようにしてつくったチップは、単体でもさまざまな用途に使えるわけだが、つなげれば、もっと用途は広がる。それを語り始めた田川さんの口から、「本音」というか、研究の本来の目的が飛びだした。
「口から投与された薬は胃を通って、最終的に十二指腸あたりで毛細血管に吸収され、それが門脈に行って、必ず肝臓に入ります。そこで腸管チップに肝臓チップをつないだら、ちょうどその部分が再現できます(写真7)。その下流に心筋チップをつなげば、薬物が腸から肝臓へ行った状態と心毒性(心臓に悪影響を及ぼす毒性)を検証できる。どうせだったら、そこに神経組織もくっつけて、最小哺乳類システムをつくったらどうかと考えました」
臓器チップの研究には「薬物動態システム」といった「表向き」の名前がついている。もちろん、それが実際に創薬や医療に役立てられることはまちがいない。しかし田川さんがいちばんやりたいのは「最小哺乳類システム」という一種の人工生命体をつくることなのだ。これはES細胞を分化させてさまざまな臓器をつくる、という着想を得たときから考えていたという。
ここで僕が思いだすのは、第8回の脚注で触れたことのある「最小ゲノム」の話だ。ちょっと引用すると「ヒトゲノムの解読で有名な分子生物学者クレイグ・ベンターは、マイコプラズマという非常に小さな細菌を使って、生命活動に必要な最小限のゲノム(遺伝子のセット)を作成しようとしている。2016年の発表では、もともとのマイコプラズマの遺伝子が985個だったものを、473個まで絞ることに成功した(人間は2万個以上)」
このように極力シンプルな生物や、その部品を再現しようとするのは、合成生物学で生命の起源に迫ろうとしている研究者に共通する姿勢だ。
第7回から第9回まで登場していただいた東京工業大学・地球生命研究所(ELSI)特任准教授の車兪澈(くるま・ゆうてつ)さんも、我々の最後の共通祖先「LUCA」が誕生する直前の原始的な細胞をつくろうとしているし、第10回に登場していただいた同じくELSIの研究員、藤島皓介(ふじしま・こうすけ)さんは、40億年以上前にあったかもしれないシンプルなタンパク質をつくっている。
そして田川さんは哺乳類レベルの生き物として、最もシンプルな生命システムを構築しようとしているらしい。「えっ、でもそれって生命の起源とは関係ないでしょ?」と思うかもしれないが、田川さんの考えかたからすると関係している。それについては後で述べよう。その前に、もう少しこのシステムについて詳しく語っておきたい。
1個の「本物」のES細胞からすべてつくる
田川さんは最小哺乳類システムをつくるにあたって、3つの重要なポイントを挙げている。1つ目はすでに述べた通り、組織構造をつくることだ。これがないと細胞はパニックに陥って働けない。
2つ目は「概日リズム」を与えることだ。平たく言えば、昼と夜のリズムである。これは生物が持っている「体内時計」と、周囲の明るさとに影響される。
人間も夜になると、脳の松果体から分泌されているメラトニンというホルモンの量が増えて、体が睡眠に適した状態へと導かれる。逆に朝日を浴びて目覚めると、体内時計がリセットされ、メラトニンの分泌量も減っていく。だから夜になっても強い照明を浴び続けていると、メラトニンが増えずに睡眠障害の原因となる。
生物の一部である以上、培養されている細胞にも、この概日リズムが必要だと田川さんは考えている。しかし培養中は真っ暗なインキュベーター(培養装置)の中に置かれているし、細胞には目がないので光を当てても概日リズムは得られない。それを解決するために、ある化学物質を使って概日リズムを同調させ、コントロールしようとしている。
すると24時間サイクルで、いろいろな遺伝子が働くようになるという。とはいえ、そうした化学物質には副作用もあるので、現在は細胞の遺伝子も含めての改善を試みている。
そして3つ目は「モノクローナル」にすることだ。つまりシステムを構成するすべての細胞を、同一のES細胞(のクローン)から得る。我々の体が、もとをたどれば受精卵という1個の細胞に行き着くのと同じだ。したがってチップ上にあるどの臓器の細胞も、同じ年齢で同じ遺伝子を持っている。
当たり前と言えば当たり前にも聞こえるが、田川さんと似たような「チップ上の臓器」や「チップ上の体」などを研究している人の多くは、あまりこだわっていないらしい。中には臓器ごとに別々の個体から得た細胞を使ったり、ES細胞ではなく腫瘍(がん)に由来する細胞を使ったりしている場合もあるという。これだと実際のヒトやマウスのように、統一された「健康な」人工生命体には、なりそうにない。
ついでに言えば、使うES細胞一つに対しても、田川さんにはこだわりがある(写真8)。実は万能細胞と言いながら、多くのES細胞にはその能力がないらしい。とくに生殖細胞(卵子や精子)にまで分化できるES細胞は限られている。
また肝細胞なら肝細胞にばかり分化させていると、家畜が人間に都合のいい姿や性質へと変わっていくように、肝細胞になりやすいES細胞ができてしまうという。そこで田川さんは、使うES細胞がちゃんと生殖細胞にまで分化できる「本物」かどうかを、必ず確認する。
工学系の研究者らしい姿勢だが、単なるこだわりではない。田川さんから見ると、観察や解析を中心とする従来の生物学では、そうした「純粋さ」あるいは「不均一性」に甘い傾向があるらしい。するとたとえば「STAP細胞」問題のように、誰もが納得できる結果を得られないこともあるのだという。
「合成生物学はモノづくりなので、現物があって初めて成功したということだから、納得してもらいやすい」と田川さんは言う。「ただし、つくるんだったら、それが生物であっても、どれだけ不純物が混じったらダメなのかを認識していなければなりません」
個々の臓器チップは、かなり完成度を高めているように見えるが、全体を最小哺乳類システムに組み上げるまでには、まだ時間がかかりそうだ。
チューブや流路に流した液体培地が詰まってしまったり、全体に酸素が行き渡らなかったり、どの臓器にも共通して使える培地がなかったり、と技術的な問題が山積している。
培養する細胞自体も、ES細胞から分化させただけでは「未熟」で、大人の細胞に比べると能力が限定されている。また未熟であるがゆえに増殖力は旺盛で、すぐにチップから溢れて死んでしまう。したがって今のところ、長期間の培養はできない。
こうした困難はあるが、田川さんとしては3年以内に何とか実現したいとしている。