「知の王者」物理学の栄光と黄昏……「コスパ時代」に科学が生き残る道はどこにある?
(以下は氏の最新刊『物理学の世紀』からの抜粋です。)
物理学の退場?
しばらく前、アメリカ物理学会の会誌を見ていたら、ふとキップ・ソーンらしい写真が目に留まった。ソーンにしては珍しくパリッとした背広姿で、2人の紳士と一緒に写っている。
何の記事かと読んでみると、「キャルテック(カリフォルニア工科大学)では創立以来、学長を物理系分野の人物が占めてきたが、今回初めて生物学者が学長になった」という記事である。ソーンは学長選考委員会の委員長を務め、一緒に写っている人物の1人が学長になるノーベル賞受賞の生物学者であった。
ソーンは筆者と同世代の同業者で、最近は宇宙からの重力波観測施設であるLIGO建設の中心人物として活躍している。ブラックホール研究の興隆期で沸いていた1973年に初めて会ったときには、当時のカリフォルニアのヒッピー文化に染まっていて、長髪に革ジャンパー姿の若手教授であった。一緒にいた彼らの教師であるプリンストン大学のジョン・ホイラーの紳士姿との際立った対比が、今でも目に浮かぶ。「未来と過去をつなぐ時空構造の作り方」という”楽しい”アイデアで、今からしばらく前、話題を提供した男でもある。
そんな彼が大学内ではこんな役目もする”大物”になったのだなと、時の流れを感じると同時に、「ええ、またか!」という思いを禁じ得なかった。
「またか!」というのは、科学の広い分野が絡む大学や学術機関、組織などでの物理学の存在感が減っていくニュースが相次いでいたからである。1997年、クリントン米大統領がある大学の卒業式で、「過去50年は物理学の時代であったが、これからの50年は生物学の時代である」と演説してアメリカの物理学界に波紋を広げた。キャルテックのこの一件もそれと符合する。
アメリカで「物理学の退場」などという縁起でもない論調がマスコミに登場したのは米ソ冷戦の終結前後の1990年頃からで、それに続く1993年、SSC(Superconducting Super Collider)という素粒子加速器の建設中止がその潮流を納得させる事件となった。
翌年春にシカゴ大学を訪問したことがあったが、ビッグバン宇宙論の立役者で、研究にも、大学・研究行政にも、マスコミの売れっ子としても超精力的に活動していたデービッド・シュラムが、盛んに「バイオの連中が、最近、大学内で鼻息が荒くてやりにくい」とこぼしていた。エンリコ・フェルミ(イタリア→アメリカ)が育てあげた核物理の牙城であったシカゴでさえ、このありさまである。研究担当の副学長や、ワシントンでのロビー活動をエネルギッシュにこなす彼を見ていると、パワフルであった往年の「アメリカ物理」の面影を見る思いがしていた。1997年末、その彼が自家用飛行機を操縦中に事故で亡くなったのは痛ましいことだった。