日本は有人宇宙活動に消極的だった?
2024年4月10日、米国を訪問した岸田文雄首相は、バイデン米大統領との首脳会談で、日本人宇宙飛行士を2回(各回1人なので2名)、月面着陸させることで合意した。日本は、アメリカが進める大規模な月面活動プロジェクト「アルテミス計画」の参加国だが、計画通りに実現すれば日本人が有人月面着陸では世界で2カ国目になる。日本は、トヨタ自動車が開発中の月面車(与圧ローバー)も担当。
米国の宇宙飛行士が最初に月面に立つ予定は2026年9月ゆえ、日本人宇宙飛行士はその後になる。2030年までには実現するかもしれないが、いやはや、ここにくるまでずいぶん時間がかかったなぁと思う。
日本が初めて「本気で」月探査計画を議論したのは、およそ15年前、2009年8月に第1回の会合が開催された「月探査に関する懇談会」だった。座長は早稲田大学総長(当時)の白井克彦さんで、元宇宙科学研究所所長の鶴田浩一郎さん、国立天文台長(当時)觀山正見さん、元宇宙飛行士の毛利衛さんなど宇宙の専門家のほか、トヨタ自動車やリコー、シャープなど技術系企業、漫画家の里中満智子さんなど構成員は19名で、私も参加していた。
2010年7月まで9回にわたる議論の成果は、「我が国の月探査戦略 ~世界をリードするロボット月探査と有人宇宙活動への技術基盤構築~」としてまとめられたが、今それを読み返してみると、「戦略」はちょっと腰が引けている内容だった。
「月探査の目的」は、太陽系探査のための宇宙技術を自ら確立、 世界トップレベルの月の科学を一層発展、国際的プレゼンスの確立、という3点で、ゴールは「2020年に月の南極域に世界で初めてロボットにより探査基地を構築」というものだった。これは、「有人宇宙活動への技術基盤の構築」のための前哨戦だが、「有人宇宙活動」については何年までにといった具体的なロードマップはなく、「広く議論を実施」で締めくくっている。
「広く議論を」という結論は、1986年1月、スペースシャトル・チャレンジャー号の打ち上げ失敗で乗員7名全員が死亡、さらに2003年2月、スペースシャトル・コロンビア号の帰還失敗でも乗員7名全員が死亡した事故が影響していた印象がある。当時、私も参加していた別の政府の宇宙関連会議では、宇宙飛行士も含め大半の委員が「日本も独自の有人宇宙活動を進めるべき」と主張したが、「日本の宇宙飛行士が事故で命を失えば、世論の厳しい批判によって日本の宇宙活動はすべて潰れてしまうぞ!」と、額に青筋を立てる委員がいたことが忘れられない。
「我が国の月探査戦略」が「有人活動」には触れず、日本の技術開発力が期待できる「ロボット」による活動に重点を置いたのは、そういう当時の風潮ゆえだったのかな、と。
一方、「我が国の月探査戦略」では、2020年以降の本格的な月面活動の準備段階として、2015年にロボットによる「月面へのピンポイント軟着陸」と「短期間のロボット探査」を行うとしていたが、9年遅れとなったものの、「月面へのピンポイント軟着陸」は達成した。
月面探査機「SLIM」だ。