2024.01.03
豊臣秀吉の「中国大返し」、2万人の軍隊は1日にどれくらいの食糧を必要としたのか…その量が「衝撃的」だった!
歴史とは、人と物が時間軸・空間軸の中をいかに運動したかを記述するものである。話題騒然の前作に続き、日本史の「未解決事件」に「科学」を武器に切り込む!
本記事は播田 安弘『日本史サイエンス 邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵、日本海海戦の謎を解く 』(ブルーバックス)を抜粋・再編集したものです。
本記事は播田 安弘『日本史サイエンス 邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵、日本海海戦の謎を解く 』(ブルーバックス)を抜粋・再編集したものです。
秀吉軍2万人の部隊構成
まずは、羽柴秀吉軍の2万は、どのような構成だったのかを押さえておくべきでしょう。
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戦国武将の家臣団の構成は、織田信長が現れるまでは武将の親族が中心でしたが、信長は血縁に関係なく優秀な人材を部将として取り立てて、戦闘に特化した軍団を構成することで台頭していきました。本能寺の変の当時、織田家臣団のおもだった部将は、たとえば柴田勝家は北陸に、滝川一益は関東に、明智光秀は近畿、織田信孝は四国というように、それぞれが方面軍を指揮していて、秀吉は中国方面軍の司令官でした。
では、彼らが率いていた軍団の規模はどのくらいだったのでしょうか。戦国大名の実力を測るものさしとして、「石高」がよくつかわれるのはご存じの通りです。「石」とはコメの容積の単位で、10合で1升、10升で1斗、4斗で1俵、10斗で1石です。成人男子1人が1年間で食べるコメの量が1石といわれています。戦国大名の石高は、領地でどのくらいコメが収穫できるかを示すもので、豊臣秀吉が検地を行うまでは全国共通の基準がなかったため公平な比較は難しいのですが、本能寺の変当時、織田家が直接所有していた領地の石高は、240万石ほどにまで増えていたとみられます。おもだった部将たちにあてがわれた領地も、100万石前後にのぼっていたと思われます。これは武田信玄、上杉謙信、伊達政宗といった有力戦国大名と同じレベルです。
石高からみた動員可能な兵力数は、1万石につきおよそ250人であったといわれています。秀吉の石高は当時、80万石ほどだったと思われますので、中国攻めに2万人を動員していたというのは整合性があります。