はてなキーワード: 如実にとは
鏡に映った自分やずっと知ってる同級生を見たってわからないけど、
テレビの街頭インタビューなんかでたまたま同じ歳の人が映ってたときの衝撃たるや
「え?同じ歳? おっさん通り過ぎておじいちゃんじゃねぇか!」ってなる。
2.推してる若い人に対して自分はずっとずっと前に死ぬことになるんだ。。。って不意に気づいたとき
今くらいだと若い頃に活躍した人の訃報を知って、ああ、この人も亡くなってしまったか、と弔うわけだけど
とっくに死んじゃってるからね。
3.どこかが痛くない日がない
木曜日になったら両ひじがズキズキ
金曜日は右ひざ痛くて
土曜日は左の足首が謎の捻挫
日曜日は首肩痛すぎて回せない
他にもいろいろあるよね。。。
日本社会における共同体の形態は、時代とともに大きく変化してきた。かつての故郷を中心とした共同体から、会社中心の社会、そして現代の「推し活」に至るまで、その変遷は日本人の生活や価値観の変化を如実に表している。本稿では、これらの変化を考察し、各時代の共同体が持つ特徴と、その基盤となるものの変化について探る。
まず、最も古い形態の共同体として、「故郷」に焦点を当てよう。故郷という共同体の最大の特徴は、その「大地」に根ざした不変性にある。人々は同じ土地で生まれ育ち、その土地の文化や伝統を共有することで強い絆を形成していた。この共同体は、地縁・血縁に基づく強固な結びつきを持ち、相互扶助の精神が根付いていた。自然災害や飢饉などの危機に際しても、互いに助け合い、乗り越えていく力を持っていたのである。
しかし、明治以降の近代化と、特に戦後の高度経済成長期において、日本社会は大きな変容を遂げる。地方から都市部への大規模な人口移動が起こり、故郷が担っていた共同体としての機能は徐々に失われていった。その代わりに台頭してきたのが、「会社」という新たな共同体である。
会社は、故郷が担っていた共同体の機能を代替し、終身雇用や家族的経営など、日本独自の特徴を持つ相互扶助を実現する場となった。ここでの結束の軸は「生産」である。社員は会社の生産活動に従事することで、安定した収入と社会的地位を得ると同時に、会社を通じて新たな人間関係を構築した。会社という共同体は、個人の生活を支える基盤となり、そこでの人間関係は時に家族以上に親密なものとなった。
しかし、バブル崩壊後の経済停滞と新自由主義の台頭により、会社という共同体の力は徐々に弱まっていく。終身雇用制度の崩壊や成果主義の導入により、会社と個人の関係性は大きく変化し、かつてのような強固な絆は失われていった。日本人は再び連帯を失いかけたのである。
そんな中で台頭してきたのが、「推し活」を中心とした新たな共同体である。推し活とは、特定のアイドルやアーティスト、キャラクターなどを熱心に応援する活動を指す。この新しい形態の共同体は、80年代のオタクカルチャーとは異なり、より「共同体的」な性質を持っている。
オタクカルチャーが個人の趣味や嗜好を強調し、それが結果的に既存の共同体からの逃避や代替の場として機能していたのに対し、推し活はむしろ個人を再び共同体的な枠組みに引き戻す役割を果たしている。推し活を通じて人々は、共通の関心を持つ他者との連帯感を感じ、コミュニティを形成している。このコミュニティは、かつての故郷や会社が持っていた連帯感に似た役割を果たしているのである。
しかし、ここで注目すべきは、これらの共同体がそれぞれ何に根ざしているかという点である。故郷は「大地」に、会社は「生産」に、そして推し活は「消費」に根ざしている。この変遷は、共同体としての強度が徐々に弱くなっていることを示唆している。
大地に根ざした故郷は、よほどのことがない限りなくならない。生産に根ざした会社も、人が生きている限り必要不可欠なものであり、個々の会社の栄枯盛衰はあれど、会社という制度自体はなくならない。会社を移動することで共同体を失うリスクは最低限担保される。
しかし、消費に根ざしている推し活は、消費するための財がなければその共同体に参加することはできない。財とは個人的なものであり、財を失ったときに補完してくれる基盤はほぼない。生活保護などのセーフティネットは存在するが、それを受給することは推し活に回す余剰がほぼない状態を意味する。
したがって、推し活による共同体は極めて脆弱な基盤の上に成り立っているため、その財を得るために無茶な行為を働きかねないというリスクにつながる。これを読んでいる皆さんの周辺でもそのような現象は枚挙にいとまがないであろう。
このように、日本の共同体の変遷は、社会の近代化と個人主義化の過程を反映している。大地から生産、そして消費へと基盤が変化する中で、共同体の強度は弱まり、個人が抱えるリスクは増大している。
推し活という新しい共同体の形は、現代人のニーズに応える一方で、社会の安定性という観点からは課題を抱えている。今後の社会は、この新たな形の共同体がもたらす利点を活かしつつ、その脆弱性にどう対処していくかが課題となるだろう。
私たちは、これらの課題に対して、どのような社会システムや価値観の変革が必要となるのか、真剣に考える必要がある。消費に基づく共同体の脆弱性を補完する新たな社会的セーフティネットの構築や、消費以外の要素で人々を結びつける新たな共同体の形の模索など、様々な角度からのアプローチが求められている。
日本社会が直面するこの構造的変化は、単なる社会現象ではなく、私たちの生き方や幸福のあり方に深く関わる問題である。共同体の変遷を通じて私たちが失ってきたものと、新たに獲得したものを冷静に見極め、より強固で持続可能な社会の構築に向けて、一人一人が考え、行動していくことが重要だ。そうすることで初めて、推し活に代表される新しい形の共同体と、伝統的な共同体の良さを両立させた、真に豊かな社会を実現できるのではないだろうか。
なんか8月入っちゃってからあっと言う間にもう8月終わっちゃいそうな勢いなんだけど。
あっと言う間によ。
とはいえどうすることもできないので粛々と夏を過ごすばかりなんだけど。
でも今年は暑さしのぎに本当にキュウリを囓りまくりまくりすてぃーよ。
たぶん1日256本とか囓ってたかもな新記録。
前代未聞の新記録だわ。
あの皮の緑の部分に緑黄色野菜の成分を期待してもいいのかしら?
あの緑の部分は相当な緑なので微かな栄養を感じてもいいのだけど
実際はどうなのかしら?
信じて食べるしかないわよね。
あの緑の部分を信じてそこの緑の部分を最大限に身体に得る栄養をマックスに!
まさに気分はマックス!
絶対にあの緑の部分を信じて食べるっきゃないのよ。
るっきゃないのよ!
そう「るっきゃない」と言われれば「るっきゃある」って言われたときに困るけど
たぶん「るっきゃない」わ。
あとキュウリの手軽さに、
片手で持ち歩きながら食べられると言う、
もちろん両手で持ってキュウリを食べながら持ち歩き食べてもいいのよ。
でもそうしちゃったら
きゅうりが好きな人だと思われるので片手で食べるのがお手軽でオススメだわ。
昔の人が食べた鉄火巻きとかサンドイッチとかゲームをしながら手で摘まんで食べながらっていうスタイルあるじゃない。
まさしくあのサンドイッチの具の中身がキュウリだって言うことにも賛成を覚えてしまうわ。
まあキュウリ食べたからと言ってゲームの運びが上手くなるかどうかはまた別だけれどね。
あと今まで意識してなかったけれど
野菜の立派さもキュウリって如実に分かるのよねって私でもそんなに野菜の目利きは銀次ほどないにしろ、
立派で美味しそうなきゅうりを仕入れているマーケットのお店はだいたい野菜が活きがいいような気がするわ。
間違いない気がするし、
結構だからキュウリってマーケットの活きの良さの判定をするための指標である目安の物差しだと思う。
私の住んでいる一番近くのマーケットがもう閉店して久しいんだけど
そうねちょうどケンケンパで行けるような16歩の距離で行けるぐらい近かったんだけど
今思ったらそこが一番野菜もお惣菜もなんかやる気が無かったもう閉店が決まっている時点で失っていたのかも知れないやる気が無かったのよ。
え?ここのお店のお野菜生き生きしてない?
え?ここのお店の鮮魚新鮮変わりダネもあって楽しくない?
って具合なの。
一番近かった閉店したマーケットは
今思ったらお惣菜も美味しくなかったことを他所と比べて知ったところよ。
いつ買ってもパサパサのから揚げとか。
お惣菜のから揚げもマーケットの良し悪しを決める一つの物語になると思うわストーリーがあるのよきっと。
だから
今年の夏はキュウリを囓りまくったとは言え
それゆえに世界を感じざるを得なかった気がして
私はとにかくなにか大きなことを得て感じたような気がするのよ。
だから
夏が終わるまでにキュウリの囓り収めもしておかなくちゃって思ったわ。
うふふ。
でもさ
よくよく考えてみたら、
逆にプレーンのキュウリだけのシンプルなサンドイッチってお目に掛けたことがないわ。
あれはきっとやっぱりファンタジーサンドイッチなのかも知れないけれど
もしかしたらあるところには存在しているのかも知れないキュウリのサンドイッチ!
ファンタジーだわ。
お馴染みピーラーで薄く削いだキュウリを水に浸してこしらえておけばもうそれは立派なキュウリウォーラーよ。
もちろんキュウリの最大効果を得るにはそのまま囓った方がいいのは百もいや256も承知よね。
いやこれはもちろん塩を一つまみいれてもいいわよっていうアドバイスでもあると思うわ。
水分補給はしっかりとね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
今回の都知事選の結果を受けて、立憲民主党や共産党支持者をはじめとしたリベラル・左派の人達が、「蓮舫が落選したのは愚民が悪い」という趣旨の発言を繰り返している(典型的な例として[B! 蓮舫] 「都知事選の蓮舫敗北は都民が差別主義者に投票したせい」 蓮舫支持団体の総括は、リベラルが選挙で負け続ける理由を如実に示した)。
こんなの悪手に決まってるのに何故こんな発言を繰り返してしまっているのか、外野からみたら不思議に思うだろ?
中学の公民とか人権の授業で社会契約説(論)ってやったろ?ホッブズ、ロック、ルソーってやつだ。
この中で、ロックの考えは主にイギリスに、ルソーの考えは主にフランスと、革命を経て左翼思想に影響を与えてきた。そこでルソーの社会契約説を確認しておこう。
多くの個々人には欲望があるよな、金儲けしたいとか異性にモテたいとか。こういった個々人の利己的な欲求を「部分意志」、部分意志の総和を「全体意志」と呼んで、下劣なものとしたんだ。この時点で、個人の欲求(=自由な経済活動)こそが社会全体の利益に適うとする資本主義とは折り合いが悪い。
更に、公益に適うものとして「一般意志」という概念を作り出した。一般意志ってのは、正しく思考した個々人は必ずこの考えにたどり着くし、人々は個々人の自由や権利を一般意志に移譲し、これに服従すべきと考えられている。
つまり、
パリオリンピックの開会式のおかげでフランス革命に注目が集まった。そして、その革命の中で大量虐殺が起こっていたことも話題となった。何故虐殺が起こったのか。
フランス革命を主導した人達は、革命こそが一般意志だと考え、それに服従しない人は人ではないと考えていたってのが簡単な説明になる。
フランス革命の中では、この一般意志ってのが「理性」という言葉に言い換えられることが多かった。
そして、「理性(=一般意志)」という神を祀るお祭りを行っていた(理性の祭典 - Wikipedia。
どうみても奇異なお祭りだが、参加者にとってみれば大真面目で、全ての人はこの考え方(一般意志)に至るべきだし、そうならない人は人ではないと考えていた。
(イギリス流の保守主義が「理性」という言葉を激烈に嫌うのもここに理由がある。)
そして、この考え方はヘーゲルを経てマルクスに至り、共産主義に結びついている。
大きな物語があれば、日常の小さな物語も何らかの意味を帯びてくるという、物語としてのありがちな構造が、人々に「大きな物語」を懇願させてしまっている。
つまり、ネットやら社会活動やらの大騒ぎは、物語(個別の物語でなく、物語という存在の全般だ)が扇動しているものだと言って良い。
日常のつまらない行動に意味を帯びさせるために、何らかの大きな行動に加わるというのは、物語による扇動効果でしかないのだと、いつ誰が気づくのだろうか。
そして、昔の物語は、そういった大きな行動はいつか破綻をきたすことを結末としてちゃんと提示していた。
現代の物語は、大きな物語と小さな物語という構造は維持しつつも、大きな物語の破綻が結末として描かれていない。
人々の、大きな物語に対する幻想を打ち砕かせていない。ただ、扇動するだけだ。
だから、現代の人々は大きな物語に耽溺し、その中で色々な過ちを犯し続けている。
つまり、インターネットやらに見られる大きな物語同士の抗争は、物語の構造改革によって抑制できるのではないか。
大きな物語を扇動した上で、その悲惨な結末を如実に感じさせる、そういった純粋な文学を描けば、抗争は治まるのではないか。
ある妄想を精緻に実現した上で、その論理の中で徹底的にダメ出しを行う、言うなら「行きて帰りし物語」的な構造の文学が求められているのではないのか。
お前、本当にコミュニケーション能力が足りないことを自覚してるのか?こういう社会問題について話すときに、まるで一方的に主張だけを並べ立てるなんて、お前のそのコミュニケーションの欠如が如実に出てるぞ。
ただ、それをただ指摘するだけじゃなく、どんなふうに改善できるのか、どう問題を認識して行動するのかが大事だろ?
お前、偏差値が低いとかお金持ちの子が行く学校とか、そういうステレオタイプな発言をしてるけど、その背後には一体何があるか考えたことがあるのか?
関東で埼玉や群馬、町田をバカにする話をしてるけど、それがどれだけの人に共感されると思ってんだ?誰もが同じように感じてるわけじゃないんだぞ。
結局お前、自分が知ってる情報だけを元に全部を語ってるけど、それじゃ全然足りないし、お前のコミュニケーション能力の低さが露呈してる。
その程度の情報収集と他人とのコミュニケーションすら出来ないようじゃ、社会の仕組みをどうこう言う資格すらないぞ。
それは特にO-1グランプリ(沖縄1グランプリ)なる、沖縄ご当地お笑いコンテストを見ているときに感じる。そこで行われている惨状は、恥ずかしくて見ていられない時すらあるほどだ。
そんなひどい感想には、あまりにも個人的な偏見が含まれていると思っているそこの心優しき人も、「ありんくりん」というお笑い芸人は存じあげないであろう。なんとその得体のしれないコンビが0−1グランプリを3度も制覇しているのである。由々しき事態だ。
「ありんくりん」はよしもと沖縄所属のお笑い芸人だ。そもそも沖縄にも吉本があったことに驚かれる方も多いと思う。「ガレッジセール」や「スリムクラブ」などの、世間一般にも認知された沖縄芸人はともに東京吉本所属である。結局のところ、沖縄の才能がある人たちは活動拠点を本土に移してしまうことが多い。
この事実を踏まえると、大阪・東京のどちらでもなく、敢えてよしもと沖縄に所属するということは、よくてご当地テレビお抱え芸人に甘んじる選択に他ならない。歴史が浅いこともあるが、よしもと沖縄から全国に羽ばたいた芸人は存在しないし、今の若手にもその萌芽すら見受けられない。
「ありんくりん」はもともとトリオだったが、一人のメンバーが脱退し、今のコンビになったそうだ。トリオから抜けたメンバーは本土風の笑いがしたかったらしいが、残りのメンバー、つまり現ありんくりんの二人は、沖縄らしいお笑いに拘ったそうだ。
O-1グランプリに出場している多くの芸人が、本家のM-1グランプリにも殆どがネタを使い回しの上で出場している。沖縄芸人は本土風のお笑いをするにしても、沖縄らしいお笑いをするにしても、どちらにせよ、すべてが中途半端に見える。
まず第一に、東京や大阪の芸人がやるようなスタンダードなネタを沖縄芸人がやると、積み上げてきた経験の差が如実に現れ、ただ芸人っぽいものを集めてまとめたようなネタが見られる。それはプロを名乗りつつも、芸人の真似をしているだけだ。これは養成所のライブや大学の学園祭のお笑いライブにも同じ感想になるので、沖縄の芸人特有のものではなく、単純な技術不足と恥ずかしさを捨てきれていない情けなさからくるものだろう。売れている芸人でも養成所時代のネタなんて黒歴史として封印していることのほうが多い。
誰しもはじめから立派な漫才はできない。出来ないことは問題ではない。失敗をしないと成長もない。沖縄の芸人が問題なのは、東京や大阪の芸人がやるようなスタンダードのネタから逃げて、安易に沖縄にすがることだ。それが非常にダサい。
自分たちの個性を模索するのは結構なことだが、彼らの選択はただ勝負から逃げているように見えてしまう。それはおそらく、本人たちも自覚していないことだろう。彼らにこんなことを言うと、顔を真っ赤にし、自分たちは沖縄を愛しているから、沖縄らしいお笑いをすると言うだろう。もしかしたら、匿名で攻撃している私に向かって、「この内地かぶれは黙ってろ!」と叫びだすかもしれない。
「ありんくりん」本人でもないし、何ならファンですらない私が、彼らのネタから彼らがいう沖縄らしさを抽出したところ、
・強烈な訛りと方言(ボケが典型的な沖縄訛りで多くの若者が普通は使わない方言を多用。ツッコミはアメリカとのハーフでこちらも訛っている)
・どこの地元にも存在するような、県民だけに伝わる細かなあるあるネタ(どこどこの交差点は交通ルールが分かりづらい、地元のスーパーは台風でもいつも空いてる、など)
しかない。
この連中は選挙を「自分たちが設定した正解にどれだけの有権者が辿り着けたか調べるイベント」だと思っている。
今回の都知事選であれば、皮算用していた若者票を石丸に取られたと判明するや悔し紛れに石丸に投票した奴らを叩き始めたが、その様子に連中の選挙観が如実にあらわれている。
連中にとって選挙は定期試験であり、有権者は受験者、自分たちは出題者・採点者なのだ。
当然だが選挙はそんなイベントではない。有権者は候補者からの働きかけをもとに投票先を決定し、投票後も絶えず更新される情報をもとに選好を修正しながら次の選挙に備える。候補者が得票できず敗北したということは、つまり働きかけに失敗したということだ。
そう、失敗したのは候補者側だ。
有権者の中には投票先の候補者を不適切と見なすに値する情報が投票後に判明したことで後悔する者もいるかもしれないが、ある候補者の敗北は、他候補に投票した有権者の後悔の有無などとは関係なく、その候補者の選挙活動の失敗によるものだ。
一部の野党応援団はそれを理解できず、選挙で負けるたびに、野党候補が得票できなかった理由を有権者側の判断ミスに求めるかのように八つ当たりしている。自分たちのその行動が野党勢力への印象悪化に寄与しているとも思わずに。
こんな連中を擁した野党勢力が選挙で勝てていないのは当然とはいえ実にありがたいことであり、野党勢力は内部の思い上がった連中を一刻も早く粛正すべきだ。
それは今回の問題点を、ドラマ制作サイドの意図が原作者に充分伝わっていなかった、つまり「説明不足」に求めているところ。
本打ちメンバーが当該原作の設定を変えようと試みたことには、それ相応の議論と積極的な理由があった。しかしながら、本件原作者の上記返信内容をみる限り、本打ちメンバーで議論した内容・意図が十分伝わっているとは思えない状況であったことがうかがえる。
いや、そうじゃないんだよ。原作が何を大切にしているかプロデューサーや脚本家を含めた制作サイドがまったく理解していない改変を繰り返すことが原因なんだよ。だから原作者が誤っている箇所とその理由を事細かに指摘し、それを繰り返しても一向に直ならない状況に絶望し、心身を疲弊させていく羽目になったんだよ。
以下なんてまさにその無理解を露呈してるよね。
原作では朱里が短大に進学した設定があるが、本打ちでは、同設定に関して、「短大に進学するよりも専門学校に進学する方が近時の10代、20代としてはリアリティがあるのではないか」、(短大進学の原因となっている)「父親のリストラはドラマとしては重すぎるのではないか」等の議論を経て、高校受験の際に、父親が勤める会社が不景気になり、母親から「高校は公立でいいんじゃない?」と言われて本当は友達と一緒に制服がかわいい私立校に行きたかったけど、「うん、そうだね」と笑って受け入れたという設定に変更する旨のプロット案を送信した。(中略)上記プロット案に対する本件原作者の返事として、かわいい制服の私立高校に行けなくなったことなどは「心底どうでもいい」ことである、原作のジェンダー要素も逃げずに書いて欲しい、制作サイドは短大での設定を避けているのか?といった趣旨の記載がなされた文章が送信された。
日テレの報告書は、調査にあたった外部有識者(弁護士)が、本件以外取引がなく、独立性・中立性が担保されているとわざわざ冒頭に記しているが、上記を見れば外部有識者が日テレの側に立っていることは明らかだ。日テレも外部有識者もこれで騙くらかせると思ったんだろうか。舐めすぎじゃないかね。
再発防止策を本気で練るなら以下以外にありえない。
日テレ側は当初(3月9日あるいは29日打ち合わせ)で「本件原作者の意見を無視するような改変はしない、リスペクトをもって取り組むという趣旨の話をした」と日テレ報告書にあるが、それがなかったのは上記からも明らかである。
リスペクトとは何か。それは原作が、畢竟原作者がその作品で大事にしていることを同じように大事にするということであろう。
原作者は一切の改変を許さないというスタンスではなく、むしろ当初は上手く料理されることを願っていた節さえある。
芦原氏は、監修者として漫画とドラマは媒体が違うので、ドラマ用に上手にアレンジするのがベストであることは理解している。全てお任せして「ああなるほどそうくるのか!面白い!」と思える脚本が読めるなら、一番良いが、「ツッコミどころの多い辻褄の合わない改変」がされるなら、しっかり、原作通りの物を作ってほしい。脚本で 100 点を目指すのはもう無理だと思うので、演技や演出力で、なんとか80~90点に、引き上げて欲しい。ベストは無理だと判断したので、限りなく全力でベターを目指して欲しい。と一層の努力を求め、原作者として「作品の根底に流れる大切なテーマを汲み取れない様な、キャラを破綻させる様な、安易な改変」は、作家を傷つけることをしっかり自覚して欲しいと要請しつつ、役者スタッフ等多数人の労苦に感謝しており、「闇雲に原作を変えるな!と主張しているわけではなく、よりよいドラマになるように、自分を守るために、現段階でできるベストを尽くしているつもり」と結んで本件脚本家の理解を期待した。
上記は小学館側の記載だが、原作者の当初の期待とそれが失われていった様を如実に表した一文であろう。
両報告書を読んで最も強く感じたのは原作者の孤独と絶望である。原作者は小学館を間に挟んでドラマ制作サイドと戦っている感覚だったのではなかろうか。
本来なら原作者と同じスタンスで原作によりそい、ともにドラマを作り上げていく仲間であるはずの制作サイドが敵となってしまったのは、本事件における最大の不幸である。
なぜそんな不幸が生まれたのか、制作サイドが真剣に反省し再発防止策を明文化し、プロデューサーからADに至るまでそれを徹底的に学び、実行しなければこの悲劇は繰り返される。
のではあるが…
●今回のことを受けて
・これで怖がっちゃいけない。安全にドラマを作る方法なんてない。それはみんな意見が違うし考え方が違う。その中で人間の生き方みたいなものを提示していかなければいけない。意見の食い違いもケンカもいろんなことがあって、プロデューサーが代表して、こういうドラマを世に問うんだと原作者、脚本家をまとめやっていかなきゃいけない。それを怖がっていたら面白いモノが出来なくなってしまう。そういう危険は今後もはらんでいるだろうけれども、だからこそ話し合ってコミュニケーションをとってやっていくしかない。
・放送局としてはまず第一に社員を守ることが仕事。社員を守るために早く結論を出すとか、その原作に係るトラブルの際に早く赤信号みたいなものをキャッチし、社員ができるだけクリエイティブに物を作る環境を整えるのが会社の仕事。
・若手プロデューサーの起用については、(トラブルになりやすいというのは)正直言ってあるとは思うが、それを恐れていたら駄目。失敗しないと学ばないからこそ、失敗してもフォローが出来る体制を作っていく方が大事。
「虎に翼」を評価してる人って普段どういう作品を楽しんでいるの?
好きなドラマ、映画、漫画、ゲーム、演劇、なんでもいいから教えて欲しい。
なんでかって?
私は虎に翼が面白いとは全く思えない。
正々堂々とハッキリ言っておくのがフェアだろう。
私が朝ご飯をリビングで食べる時間に母親が毎朝見ているから一緒に見せられているが、全然面白くない。
出勤日には食堂や休憩室のテレビで同僚と一緒に見ることもあるが、全然面白くない。
なんでこんなのを見せられなきゃいけないんだろうと思ってる。
つまらない。
虎に翼だけは特別面白いとも思えないし、それ以前にやっていた作品と差があるようにも思えない。
そして、虎に翼は正直言って他のドラマよりもある意味でレベルが低いと思っている。
扱っている題材が単なる恋愛モノに留まっていない分、出来の悪さがより如実に出やすくなっているように感じるからだ。
「じゃあ逆に、虎の翼が好きじゃない人はどんな作品が好きなんだろう」と感じた人もいるだろう。
それに先に応えるのがフェアだろうから回答する。
国産ドラマなら「dele」「民王」「おいしい給食」が最近(もう結構古いな・・・)だと好きだった。
海外ドラマの場合は本当につい最近配信された「フォールアウト」を推したい。
小説だとミヒャエルエンデ、劉慈欣、恒川光太郎、村上春樹といったファンタジー系の作家を好んでいる。
映画ならファンタジー作品だと「チャッピー」のようなSF+人間は愚か、実話系でも「イミテーション・ゲーム」のようにサスペンス寄りなものが好きだな。
全体として、手間暇をかけて世界観、空気感を構築する作品を好んでいるようだ。
さて、じゃあ私は「虎に翼」に対して丁寧な世界観や空気感の構築を感じていないということなのではという仮説が立つな。
うん。そうなんだと思う。
「この時代はこんなにも男女不平等だったんですよ~~~~」と視聴者に語りかける時の説明台詞っぽさは本当になんとかならないのかと感じてしまう。
説明することにばかり意識が言っていて、その中に不自然さが溢れているんだよ。
生まれてから今日まで当たり前のように男女不平等の世界に生きてきた人々であるという感覚がそもそもないとういか、突然あの時代に転生してしまった現代人が必死にあの時代の人間のふりをしているかのような語り口なのはなんとかならないのか。
脚本を作っている人たちの中に、男女の生き方についての「常識」が違ったという前提がすっぽり抜け落ちているようにさえ見えてくる。
「男(女)が~~~なのは当たり前でしょ?」という感覚の当たり前感が薄っぺらい。
劇中でそれをわざわざ再度強調する時の
「女~~~~!!!女ごときが~~~~~!女め~~~~!!!」
「え?女だから駄目なんですか」
「女ごときが~~~俺が間違っているというのか~~~~~」
「それは法律が間違っているんです」
「女~~~~まだ言うか~~~~~~!!!!」
みたいな流れも見ていていい加減うんざりするというか、アレを作劇的に意味があるものだとして監督やディレクターがOKを出している、というよりも後押しをしてより安っぽい作りにしようと頑張っているんだろうなということに程度の低さを感じて目眩がしてくる。
男女平等啓発のための30分程度の教育ビデオならともかく、30時間も尺があるドラマで「物語を通して薄っすらと見えてくる現代とは違う男女観」を浮かび上がらせることを放棄して、露骨にでっち上げた憎まれ役に「女ごときが~~~~」と何度も言わせているのは稚拙と言わざるを得ない。
なぜ、こんなものが評価されているのか、私には本当に不思議でならないんだよなあ。
追記:
皆さんの好きな作品
国産ドラマは「最愛」「vivant」、海外ドラマは「グッドファイト」「トッケビ」、アニメは「PSYCHO-PASS」、本は小説より宇宙物理が好き、映画はネイチャードキュメンタリーが好き。
朝ドラだと「あまちゃん」「ゲゲゲの女房」「エール」大河だと「鎌倉殿の13人」「いだてん」「西郷どん」「真田丸」辺りが好き。
北村薫の推理小説、白石加代子の一人舞台劇「百物語」、柿本人麻呂の長歌、スーシェのポアロ、グールドのバッハとグルダのモーツアルト、ジョージ・セルの「ハーリ・ヤーノシュ」。
漫画課金勢ワイ、この一年で見てるドラマは虎に翼だけ。こんな私が漫画で好きなのは、違国日記、君の心に火がついて、隠密お局、明日カノ、薬屋、町田くんの世界、平和の国の島崎へ、繕い裁つ人、銀太郎さん等
同じくカーネーションが飛び抜けてるという感想だが今回のも秀作。光る君へ、鎌倉殿、拾われた男、エルピス、大豆田十和子、カルテット、大奥(nhk)、MIU404他野木脚本など
今クールはアニメ「ウィンドブレーカー」「転生貴族、鑑定スキルで成り上がる」見てる。/ 一番好きな漫画は「ワールドトリガー」
鎌倉殿と野木亜紀子と坂本裕二が好き…。ごめんね、ど定番で。。マンガは萩尾望都と吉田秋生、小説は恩田陸と村上春樹が好き
虎に翼みたいに、主人公がペラペラよく喋るドラマは掛け合い漫才みたいでわりと好き。逃げ恥とか、ミステリと言う勿れとか、大豆田とわ子とか。
なるほど、色々あるな。
虎に翼以外の朝ドラも見てる人が多くて、大河も見てる人が多いっぽいがそもそも視聴率が高めだからなんともだな。
大河だと鎌倉殿が人気っぽく見えるし、全体として味付けの濃いキャラがたくさん出てきてガヤガヤしてるタイプが好きって傾向が強そうに思える。
なるほど。そもそもの前提として適当に見るような作品として作られているのか。細かい機微を表現することを最初から捨てているとああいった大雑把な演技・脚本になるんだなあ。
「男女の生き方についての「常識」が違ったという前提がすっぽり抜け落ちている」その常識に疑問を抱き戦った女性達の話なのでああなるのは作劇上必然。当時の常識に従い耐え忍ぶ話が見たいなら別の話をどうぞ
ちょっと話が噛み合ってないかな。前提としている常識の違いを台詞によって表現する際の微妙な機微が出せていないという話なんだが。まあこれもそもそもながら見前提の大味演技のせいで削ぎ落とされてしまった部分ということなのかな。だとしても、それを出せない癖にこういった題材を扱うのはなんというか・・・失礼な気がするんだがな。
この人がちむどんどんをどう乗り越えたのかが気になる。
乗り越えられなかった。「ちむどんどんする!ちむどんどんする!」の声を聞きたくなくて別の場所で飯食ってたよその時期。
なんとなく色々分かった気がするので増田で聞いて良かったと思う。