はてなキーワード: ハエとは
※中国下げ日本上げじゃないのでそれを期待してる人は読まないでね。日本もずっとやばい。というか最近やばくない国がない。みんな違ってみんなやばい。しかし中国のやばさの加速とやばさの質が凄いねという話です。悲しくなってるのでお気持ち多すぎて完全に怪文書になってごめん。
中国がわりとやばいという話をたまにしてた日本と中国頻繁に行き来してる元中国住みの中年です。
https://anond.hatelabo.jp/20230611231950
https://anond.hatelabo.jp/20231001225541
本格的にわりとやばくなってるので久しぶりに。ニュースを見た人たくさんいると思うけど…なんかもう悲しさしかないよね。
【たぶん政府が一番焦ってる】
前に「中国が一番恐れてるのは人民だ」と書いたことがあるんだけど、この考えは今でも変わってない。
政府「えっと、まあそうなんだけど、ほどほどにね」
人民「(無視)(デマ拡散)(尾びれ背びれついてさらに拡散)(行動力のあるバカが暴走)(実害)」
政府「」
日本「」
ってなってる。日本にヘイト向けてガス抜きしたのは紛れもなく中国政府だけどここまで人民が暴走するなんて考えてもなかったはず。今自国やばいからそんなことしてる暇ないと思うけど。
良くも悪くもエネルギッシュなのが人民の特徴で、いい方向に行くと最高なんだけど悪い方向に行くともう最悪です。荒ぶる人民たちは本人らにさえ止められない。現実逃避だって本人らも分かってないというか気づきたくないんだろうね。
日本人として日本ヘイトずっと悲しかったけど、最近はもう「それであなたの将来への不安が少しでも消えるならどうぞ」みたいな感じになっちゃってる。いやよくはないけど。
日本ヘイトしてると色んなものがぼやけていいんじゃない。あのストゼロの有名な画像みたいな感じ。
これさ、対日本だからまだマシだけどほかの国に人民が喧嘩売ったらどうすんだろね。大問題になりそう。カウンターでぶっ殺されそう。
自分はガチでプーさんの次がどうなるのか心配してる。プーさんはなんやかんや言われてるけどようやっとる。こんな危ない人民たちのまとめ役()になりたいやついる?いねえよな…
次ガンギマリのやつきたらマジで中国どうなるのか考えたくもないわ。まあどうせ自分の好きだった中国は戻ってこないと思うから若干どうでもよくなってるけど。
【メンツどこいったの】
経済の危うさを感じ取れる指数は色々あるけど、なんせ前にも書いたように成長し続けられるメンタルじゃなくなってるんだよね。老若男女。
メンタルってなんだよデータ出せよって言われそうだけど、国が成長したり人が元気だったりするのに国民のメンタルってめちゃくちゃ大事だからね。我が国見たらわかるじゃん悪い意味で。
なんかもう悲しくなったのが、中国人のいいところでもあるかっこ悪いこともかっこよく面白く見せようとするようなのがなくなって、あろうことか弱者であったり状況がひどくなったことを武器にしたりしてるんだよ?中国人がだよ?メンツどこいったの?悲しくなるよ。
面白い自虐とかは昔からあったよ。でもそういうのじゃなくてさガチなのよ。怒りと悲しみがにじみ出てるのよ。
あんたらのいいところってしんどさや悪い状況を楽しんだり笑い飛ばしたりするところじゃん。それなくしてどうすんのよ…ガチで悲しいわ。
自分が中国にいたころは、「中国の若者はエネルギッシュだなあ。暗い日本の若者とぜんぜん違う」と思っていたのだが、その印象が逆転しつつある。環境がすべて悪いんだけど。
逆に日本の若者の方が「お、こんな楽しいもの見つけたw」「これめっちゃいいじゃん!」「こういうのやりたいなー!」って希望があると思う。なんか皮肉なことに景気悪いのがデフォになっちゃってるからそれを普通に受け止めて逆にいいことがあれば素直にいいじゃん!って思えるしいいことを見つけようとしてるのかもしれない。考えも柔軟な子が多いし。すごく良い傾向だと思う。希望をサポートできるように頑張りたい。
今の中国の若者って、今までガンガン成長してきてそれが頭打ちになって今度は隠しきれない悪いニュースがガンガン出てきて…みたいなので、日本の「不安」とはまた質が違うんだよね。日本は不安煽りすぎるくらい煽るから不安耐性つくんだけど、中国って政府が「問題ないっすよ」みたいな顔するし日本の比じゃないくらい事実捻じ曲げるしなんなら100を0にするしもうむちゃくちゃなのよ。そんな中「やばくない?」って一回思っちゃったらもう怖いの止まらないよね。普通に同情します。
というかいつも思うんだけど、日本の報道の自由が~とか言ってる人って中国行ったら気絶するのかな?
ちょっと違う話になるんだけど、今英語圏(ラテンアメリカもちょっと)のX(Twitter)やTiktokで日本叩きが流行っている。すげえバカな内容の。
「日本人は黒人フェチで、日本人女性は常に黒人の遺伝子が欲しがってる。気持ち悪い」「今日本はブラジルを征服中」「日本人は中国人を3000万人殺した」とか。そんなのに「日本のイメージが崩れた。悲しい」とかコメントいいね大量についてる。
頭おかしいでしょ?日本人のIQが高い!とか言ってるやつを今まで鼻で笑ってたんだけど、英語圏のバカどもを見てるとガチで日本人のIQが高い気がしてくるよ。
で、「中国凄い!」がセットで言われてるからこのブームはチャイナが起こしたものなのは間違いないとみてるんだけど
こういうのに釣られるアホどもを味方につけてどうすんの?これで「そうなんだー!」ってなる層に日本下げ中国上げすりこんでどうすんの?きたねえうんこにたかるきたねえハエ集めて役に立つの?立つわけねえじゃん。というか人民の暴走も大変なのに変なのまでついてきちゃってどうすんの?偉大な国家()として不利になるよ?
本当の「中国すごい」ができなくなったから苦し紛れでやってるんでしょ?かわいそうすぎて見てられない。嫌味とかじゃなくてマジで。
でもまあ日本人でも中国のありえないデマに騙されてるバカいるから人のこと言えないけどそれにしてもひどいわ。
【疲れた】
悲しい悲しいうるせえよって感じだけどさ、本当に悲しいんだよね。
前まで、愛があるゆえに軽口叩いて中国をいじって遊んでたけどそれもする気なくなるくらい悲しくなってる。
でもこの気持ちは前の中国に魅了されて夢中になって関わったり住んだりしたことある人たちにはわかってもらえるんじゃないかな。
でも今の中国の悪いところがなかったら中国は成長しなかっただろうし、そう考えるとこうなっちゃったのは必然だったのかとか。とりあえず中国スゴイ系インフルエンサーの日本人の方々は撤収作業に入ったほうがいいと思う。
十数年前から中国崩壊!!とかいう本出たり日本の愛国者(笑)が壊れたように中国オワタ連呼したりしてさ、今回もどうせしないんだろと思ってるだろうけど、今回はガチだから。崩壊!!!って感じにはならないだろうけど、気づいたらボロボロになってると思うよ。別に驚くようなことでもない。すごいスピードで成長した国の宿命だよね。
どうせ釣りとか創作とか言われるんだろうなあ。中国やばいと思わないならどんどん中国株を買ってね。フルレバでどうぞ。すごくお買い得になってるよ。
太田出版のWebマガジンにおける北村紗衣氏の連載に対して、須藤にわか氏という映画ブロガーが異議を唱え、それに対して北村紗衣が反論してホッテントリ入りしている。
私は須藤にわか氏のように映画を多く見ているわけではないし、北村紗衣氏のように多数の先行研究に実際にあたったわけではないが、発端となった連載と二人のやり取りをみて、話の主眼がずれていると感じた。同時に、二人とも結局、「ニュー・ハリウッド」という批評の枠組みに問題があることを浮き彫りにしているとも思った。
映画を見た後に「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人のために、フェミニスト批評家・北村紗衣さんが、初めて見る映画の感想を話しながら注目してほしいポイントを紹介する連載
①初めて見た『ダーティハリー』はサスペンスとして全然面白くなかった
②自分はアメリカン・ニュー・シネマが好きではない
③60年代後半から70年代に、アメリカン・ニュー・シネマ(英語ではニュー・ハリウッド)という潮流があった
④ニュー・ハリウッドは反体制的な要素と、あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴として挙げられる
⑤アメリカン・ニュー・シネマはかなり男性中心的な潮流
北村紗衣氏の素朴な感想は、末尾にある「名作と言われてみんなに愛されている作品でも今見て面白くなかったらけなしていい!」と結びつくが、③~⑥の知識を持っていると『「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人』でも理解が深まる、というのがこの連載の趣旨とみえる。
①「あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴」という認識は実際のアメリカン・ニューシネマからズレている
②アメリカン・ニューシネマはフィルム・ノワールと同様に映画批評家らによって作られた映画分類のカテゴリー
③アメリカン・ニューシネマは「ヌーベルヴァーグ」や「ドグマ’95」のような映画運動ではない
④「アメリカン・ニューシネマ」と「ニュー・ハリウッド」は分けて考える
⑥「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーは(白人の)批評のために作られた作為的なカテゴリー
⑦「アメリカン・ニューシネマ」もしくは「ニュー・ハリウッド」が差別的に見えるとすれば、それはそもそも批評的カテゴリー自体が差別的
須藤にわか氏の異議に対する北村氏の反論は、目次にわかりやすくまとまっている
①New Hollywoodの特徴のひとつにセックスと暴力があげられるのは当たり前
②New Hollywoodが男性中心的であるということは1970年代からずーっと言われている
例の著者は自分で決めた「これがニューシネマ」というカテゴリーを自分で見て「このカテゴリーには黒人映画や女性主人公の映画が入ってないから差別的」だと言っている
と述べているが、これは明らかに違っていて、
北村氏がいうように、
決めたのは私じゃなくて今までの批評家
つまり、北村氏は一般的な「New Hollywood」解釈を述べているだけなのだ。
ただし、須藤にわか氏が本当に主張したいところは上記にあるのではなく、「New Hollywood」というカテゴライズそのものに反発している。
北村氏は出典をたくさん挙げているが、須藤にわか氏の主張である「そもそも『ニュー・ハリウッド』が作為的なカテゴリー」への反証ではない。須藤氏のいう北村氏本人への批判、「知ったかぶりして、しかも知ったかぶりした上でこれは差別的だとかなんとか非難」への反証である。
(「たくさんの出典があってすごい!」的なブコメの反応は、ただマウント取りたいだけのリアクションに見える)
「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーが(白人の)批評のために作られた作為的なカテゴリーであることを度外視した上でそれを非難している。
と言っており、
北村氏は
という。ここは互いに噛みついていながら二人とも同じことを言っているように見えて混乱したが、批判対象の範囲が違うようだ。
須藤にわか氏はそもそも、「ニュー・ハリウッド」というカテゴリーそのものが、当時の映画作品群を評価するのに適切ではないと主張している。一方の北村氏がいう「批判されて当然」の対象は、須藤氏と同様にカテゴリーそのものであると同時に、カテゴリーに含まれる作品群も含まれると私は解釈した。
須藤にわか氏の論で一番重要なのは、元の北村紗衣氏の連載にあった以下の部分への反論ではないだろうか。
60年代後半から70年代の潮流であるニュー・シネマは、それ以前にあったいろいろな制約が外れ、暴力やセックス描写ができるようになり、そしてアメリカの秩序を問うような映画がたくさん作られた時代です。
これに対して須藤氏は、
だいたいニューシネマは映画運動ではないのだから「問い直していない」って誰に対して言っているんだろうか?運動の実態がないものに運動の責任を問うたところで、まるで意味がないと思うのだが。
「アメリカン・ニューシネマ」もしくは「ニュー・ハリウッド」が差別的に見えるとすれば、それはそもそもそうした批評的カテゴリー自体が差別的
この点、北村氏も、
>>New Hollywoodを決定づける作家主義的な監督の大半が白人男性であり、白人男性を主人公にした物語が代表作として受容され、研究も白人男性の監督だけを対象としてきたことはいたるところで指摘されています<<
と述べているように、「ニューシネマ」というカテゴリーそのものに問題があることは認識しているように見える。
つまり、二人とも、「ニュー・ハリウッド」というカテゴライズに問題があるという点では、共通の認識がある。そのうえで、北村氏は、「須藤氏のニューシネマ解釈は一般的ではないから、私を嘘つき呼ばわりするのではなく、自分で論を立ててね」としている。
しかし、「ニューシネマ」というカテゴリーそのものに問題があるなら、北村氏の連載における「『ダーティハリー』はニュー・シネマの影響下にある警察映画」という紹介の仕方も、「ニュー・シネマが男性中心的だ」というのも、安易に見える。元の連載において、ミステリ・サスペンス的にいまいちという北村氏の感想にはうなずけるが、「ニュー・シネマ」という潮流の紹介は片手落ちで、「研究も白人男性の監督だけを対象としてきた」ことも含めて紹介すべきだったのではないだろうか。
なお、北村氏のいう「問い直してない」というのは文系学問によくあるレトリックで、須藤にわか氏の「運動の実態がないものに運動の責任を問う」ているように見えるというのは、本質を突いていると感じた。
『ダーティハリー』含む「ニュー・シネマ」と呼ばれる作品群は、「男性・白人中心主義」的であることを「問い直せていない」からダメな作品だという、作品ファンが反発を覚えるのも無理はないだろう素人批評を容易に生み出す。(なお、これは北村氏の主張ではない。北村氏はあくまでニュー・シネマが好きではないだけだ)
文系学問(特に文学や社会学)においてありがちな、世の中の傾向や潮流を仮構して、ミクロな作品や人間を論じるスタンスは、使い方を間違えると、色々なことを損なう。その作品や人間がもつ、複雑さや豊かさが捨象されるし、俗流に応用されれば簡単に差別につながる。「この時代に生まれた人間は●●である」と決めつける世代論などを見ればわかりやすい。もちろん社会を論じるなら、そういう傾向を仮定して話を進めざるを得ないが、学者でもない人間が個々の作品や人間を評価するのであれば、マクロ的な枠組みでは拾えない面白さや豊かさにも目を向けるべきだろう。
少なくとも発端となった連載は素人が映画をより深く鑑賞する視点を提供するものだったはずだ。北村紗衣氏の視点と須藤にわか氏の視点を踏まえて、もっと映画を楽しみ人生を豊かにしたり、世の中を考え直すきっかけを得たりするのが、私のような素人にとってはいいのではないだろうか。
たとえば北村紗衣氏がいうように、
というところが、「ダーティ・ハリー」を考える上でおもしろそうな部分で、北村紗衣氏は第一印象がつまらなかったため深堀りすることはないだろうが、「ダーティ・ハリー」をこれから見て逆に「面白い!」と感じた場合には、ハリーを起点に「ニューシネマの影響下に本当にあるのか」などを考えるとまたおもしろそうだ。
そういう自分の知らないものとたくさん出会えるのがニューシネマの面白さで、あえて一時代のアメリカ映画をニューシネマとして括る意味があるとすれば、それはその作品群がこうした「新しさ」を観客に与えてくれるから
ということを踏まえて、様々な作品に触れれば見えてくるものもあるだろう。
serio フェミニストはありとあらゆる事象をフェミニスト的視点から語ってしまうので、たまにホームランを打つことがあっても、バットでキャッチャーを殴って三塁に走り出すみたいな大外しをすることがよくある。
→元連載は「フェミニスト批評家・北村紗衣さんが、初めて見る映画の感想を話しながら注目してほしいポイントを紹介する連載」なので、北村紗衣氏が好きに「ありとあらゆる事象をフェミニスト的視点から語ってしまう」わけではなく、そういう企画趣旨に基づいて仕事としてやっている
hazlitt アメリカン・ニューシネマってカテゴリーとして昔からよくわからんなとは思っている。わりとどうでもいいが野次馬的には町山某が反応すべき話題だな
→「わりとどうでもいい」と保険かけながら野次馬根性をさらけ出しているのがキモい
jassmaz 文学理論や批評理論を知らないオタクの見当はずれな批判。この時代にアメリカの価値観を完膚なきまでに破壊したことは十二分に暴力的である。87年出版のアラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』を読もう。
→「この時代にアメリカの価値観を完膚なきまでに破壊したことは十二分に暴力的」北村紗衣氏も須藤にわか氏も言っていない新たな論点。見当はずれはこのブコメでは
tokuniimihanai あちらの記事は批判相手の職業を間違えている時点で無知あるいは礼儀知らずなので読む価値がないと判断したが、やはり読まなくてよかったな。引用部分だけでも論外とわかる
takeda25 こういうの、詳しくなければとりあえず態度を保留するのが賢明なはずだけど(現にこちらのブコメはそういうのが多い)、女性叩き側のブコメでは調子に乗って叩く人間が大量発生するのが歪み
→態度を保留するって、どういう立場?後出しジャンケンに勝ちたいだけの姿勢が見えてキモい
ponkotsupon 須藤氏の批判記事は出典やら参考文献やら先行批評への言及が何もなかったのに対し、北村氏は複数の出典と研究史を出してるので、学術的には(須藤氏が再反論で論拠となる文献を示せなければ)これで勝負ありよなぁ
→そもそも商業媒体とブログの応酬で、学術的な議論ではない。かつ、出典と研究史さえ出せば「勝ち」というのは学術的でもないだろう。
二人に対するクソブコメの数々は
権威主義的で映画そのものにも映画史にも興味がなく、自分では頭を使わずに他人が貶されるのを娯楽として消費するだけを生きがいとする、野次馬根性と異常マウント欲、ハエ以下の精神性で駆動する人工低能群
夜の8時、帰宅。
外は暗く、玄関前に明かりが灯っている。
足元にはひっくり返ったアブラゼミ。
起き上がらせてみたがまたひっくり返ってしまった。
時間をかけてもう一度起き上がらせて、指に乗せたまま外の植え込みまで連れて行った。
細い枝に脚を伸ばし、弱々しくもしっかりと掴まったのを見届けて家に戻った。
この家に住み始めて3年、毎年夏になるたび顔を合わせている。
いつもは特に何もしないのだが、台風が去ったばかりだったので彼(または彼女)の無事を確認できたことが嬉しく、「いたね。」と声をかけてみた。
こちらの気持ちが向こうに伝わることはないのだろうが、向こうも逃げずにしげしげと眺め返してきた、ような気がした。おやすみと手を振って我が家に入った。
ソファーに座ると、ローテーブルにぴょんっとハエトリグモが飛び乗ってきた。アダンソンハエトリのオスだ。
彼もまた台風の数週間前からうちに住み着いている。無事でよかった。
普段は天井付近をぴょんぴょんしてるのに今日は近いなと思い、顔の前で指を振ってみた。
チッチッチッ…と目で追いかけてる様子はあったのだが、すぐにぴょんっと飛び降りてどこかに隠れてしまった。
メスのハエトリもいたはずだが、台風の後は見かけていない。どこかに潜んでいるのか、あるいは先程の彼とよろしくやって姿を消したか…
子どもでも増えたらさすがに驚くだろうが確率はどんなものだろうか。
ご祝儀になるほどの小虫は家ではなかなか見かけない。自力で頑張ってほしい。
(2024/08/19 追記)
時に人間を駆使して書き込ませている
恐ろしいことだ
より恐ろしいのがゴキだ
その方法の全貌は分からないが、時々SNSでブラックキャップディスを展開している
俺が逮捕して尋問したケースでは、ブラックキャップによって命を落とした時には、迅速に死体を片づけているのだという
敵は知恵をつけている
子曰く、「法之使民也,猶如牧羊,驅而往,驅而來」。増田、この意味は政策を持って民衆を導くことは、羊を牧することに似ているということだ。AIアートの浸透により、オリジナル作品の価値や尊厳が脅かされている状況を考えると、まるで作りたての料理にたかるハエのように見えるかもしれない。しかし、その背後には技術の急速な進化がある。
増田の言う通り、有名IPの絵も改変され、元の作品の意図が薄れることも現実の問題だ。これに対処するには、AIを正しく使うための規範や法律が必要だ。孫子も言うように、「法」と「政策」によって人々を導くことが解決策となるかもしれない。
現状を打破するためには、クリエイターたちが自分の作品を守るための手段(例えば、デジタル著作権の強化や、AIの使用に関するルールの整備)を求め続け、技術と倫理のバランスを取るための対策が必要だ。増田、この道は容易ではないが、共に歩むことが大切だろう。