はてなキーワード: アンタッチャブルとは
ローマ法王庁がパリ五輪開会式のアレ「最後の晩餐」に対して「宗教的信念をあざ笑うような表現はあってはならない」という声明を出したという。
最初これは日本語ネット圏のデマじゃないかと思ったのだが、NHKも報じていてマジらしい。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240804/k10014536461000.html
しかし有名な『最後の晩餐』の横長のテーブルに一列に座るデザインはダヴィンチが15世紀末に描いたものだ。
それ以前にも『最後の晩餐』の宗教画は多く制作され、それらは円卓や車座が多い。
例えばこれはジョット・ディ・ボンドーネによる14世紀初めの『最後の晩餐』だ。
そもそもそれまで宗教画というのはデザインの収まりの良さなどを目的には描かれていない。図像学に基づいて描かれていた。図像学というのは、絵画中の「モノ」が一つ一つ宗教的イコンを示していて、それが集合したのが宗教画となる。例えばシュロ(ヤシ)の葉を持っている人物は殉教者だ。これはシュロの葉が勝利を示しており、殉教=信仰の勝利という意味なのだ。
ダヴィンチはこれを真ん中の消失点に収斂する構図で描いた訳だ。ルネサンス~近世絵画の始まりだ。
そしてこのすっきりとしたデザイン故に古典となった。古典とは単に古いというだけじゃなくて、基準となるもの、繰り返し参照されるもの、評価が定まったものの事である。
だからダヴィンチの『最後の晩餐』モチーフは後に多くの類似品を生み出した。そしてそれらのパロディーが多く存在するのだ。これは美術に対して通じてもいない増田でも知っている美術史の常識だ。
今回の演出家もあれはヤン・ファン・ベイレルトの『 Le Festin des dieux』(神々の饗宴)だと言っている。
因みに「饗宴」と来たらギリシャでギリシャ神で愛がテーマと決まっている。
例えば、コメディ映画『裸の銃を持つ男 PART33 1/3』で階段での銃撃戦シーンがあるが、
https://youtu.be/L3QkIruVNEI?si=448XZjT7oY0DSY5R
あの元ネタはデパルマの『アンタッチャブル』だ。しかしその『アンタッチャブル』の階段銃撃シーンはソ連の映画『戦艦ポチョムキン』のオデーサ大階段のシーンだ。
そうすると『裸の銃』は『戦艦ポチョムキン』を参照していると言えるか、ポチョムキンを笑いに転じようとしているのか?言えないだろう。
なのでバチカンはネットの反応に過反応したという事になって、3年ROMった方がいいし、スマホばっか見てないで宗教画を見に行きなさいという感じなのである。
アサクリ弥助問題があまりにも複雑怪奇になっているのでどんなスタンスの人がいるのか、自分用のメモ。
特別くわしいわけじゃないので、間違ってる箇所は多々あると思う。
下にいくほど複雑かつ解決が難しくなっていく。
ーーーーーーーーーー擁護派ーーーーーーーーーー
・ゲームだしいいだろ派
・面白ければいいよ派
・盗用は謝ったしいいだろ派
~~~~~歴史問題~~~~~
・弥助は侍だと思う派
・弥助は英雄と見てもいいでしょ派
~~~~~国際問題~~~~~
ーーーーーーーーーー批判派ーーーーーーーーーー
・デザイン盗用とかいろいろお粗末すぎだろ派(UBIに日本に対するリスペクトなさすぎ)
~~~~~歴史問題~~~~~
・弥助は侍か言い切れないよね派
・もはやアサクリうんぬんではなく弥助の誇張問題となってる派
~~~~~国際問題~~~~~
①それぞれのスタンス・認識の差が大きいため、各層を隔てて会話すると会話が噛み合わないこととなる。
例えば歴史問題と認識してる人が弥助が侍か否かを話しても、国際問題だと認識してる人には現状の問題はそこじゃないとなる。
逆に国際問題だと認識してる人の意見を歴史問題と認識してる人が見た場合は、そんなことに興味ないとなる。(そもそもアサクリからトーマスロックリー氏の騒動まで把握するのが難しい)
②擁護派批判派どちらにも言えることだが、デマを流す、文章をちゃんと読まない人が多く、どれが正しいのかを把握がしづらい。
それぞれ自分の立場に有利な情報を意図して、または意図せず流すのでかなりめんどくさい。
③国際問題として話す人の中には国内外の右翼左翼の政治活動家もいるため、とてつもなくきな臭くなってる。
極端な意見をいう人も多い。
④発端がゲームであるためどうしても初めてこの問題をみた人は軽くみがち。
⑤5月くらいからほぼ毎日毎週燃料が投下されるくらい問題が発生しており、追うのが大変。
三沢さん本人か三沢さんに興味あるという人だけが読んでくれれば満足です。
これが一番の進歩であり収穫であって
一般的な「文章を読めない人」と比べても更に何かがあるように見えます。
私ははてブ民の誤読なら大抵は何をどう誤読してるか秒でわかりますが
そちらの思考が長くなるため本の内容の受け取り方が歪む。
草薙さんの癖の強い経歴を見てください。
彼はいわばブラックジャック(医師会に属さない医師)のような僧侶です。
それで本が何十万部も売れるのだから作家の才能は保証つきですが
彼の本が身になる人って案外少ないのではないかと私は感じています。
彼が添加する具体性は常に、
仏教を理解させるより「身近に感じさせる」ことに重点を感じます。
いちいち冗長な具体性を与えて透明な抽象性を損ねているように思えます。
草薙さんと三沢さん2人の出会いが相性抜群で最悪だと感じるのは
教師の草薙さんは仏教を紹介する本にかなり自己流の工夫を入れる人で、
生徒の三沢さんは人の話の途中の浅瀬で自己流解釈を始める人です。
草薙龍瞬さんが提供する仏教は既にスパゲッティナポリタンになってる感じ。
三沢さんはそれを舐めて「このケチャップの僕流アレンジ」を考えている。
三沢さんが草薙龍瞬さんの本から得た「仏教」はお釈迦様のアイデアとは別ものです。
現に三沢さんの欠点・苦しみの元が少しも治っていないですよね。
せめてこの端緒にでもついていれば、三沢さんの病的な「自分自分自分自分」という文の(思考の)癖に変化の兆しぐらいは生じているはずです。
https://note.com/tm2501/n/n1c20fe51d4ec
現に三沢さんにそのような変化が見られないので、
草薙さんか三沢さんか少なくとも片方に重大なエラーが発生していると思います。
(たぶん共鳴し合っている気がするのですが)
三沢さんは執着せず眺めて手放すということが出来ていません。
「ん、これはアンタッチャブル」とか考えていたら出来ないですよね。
(私は草薙さんの「ジャッジメント」ですらなんだかなと感じましたが
三沢さんはそれをさらに俺流に「アンタッチャブル」に変えました。
二人ともなぜこんなことするんですかね。
草薙龍瞬さんの紹介と三沢さんの読解のタッグが仏法を損ないました。
二人とも勝手なアレンジを入れることの弊害への警戒心がなさすぎるように思います。
それをやると劣化コピーではなく根本的に機能を損ねることがあります。
というか私は草薙龍瞬さんの本はサンプルだけ見て閉じたきりでしたが、
今回三沢さんへの影響を確認するうえでアンリミテッドで読みました。
「反応しない練習」。
読んでいるだけでどんどん頭が悪くなるような感覚がありました。
知識の収集癖、羅列癖、過剰で無益な具体性、支離滅裂、あと鍵かっこが多すぎ。
書き手が実践して身についた知識について語っている感じがあんまりしない。
これ本当に三沢さんと同じ型の人ではないですか?
私はこのがちゃがちゃな本から読者が自分のためになるエッセンスを掴み取れる気がしません。
凄く売れた本らしいですが、買った人達はちゃんと読んだのでしょうか?
草薙龍瞬さんはプロの作家でお坊さんですから偉そうな意見は言えませんが、
三沢さんは34歳ニートなので多少の助言はしても良いと思います。
三沢さんは「有能な人っぽく振る舞うこと」に神経を使いすぎです。
三沢さんて「有能な凄い人にならなければ自分の願いはかなわない」と思い込んでいませんか。
全然そんなことはありません。
能力的に凡人でも凡人以下でも願いをかなえて生きている人は沢山います。
三沢さんの大言壮語や意識高そうな口調はただの自己否定や現実逃避に見えます。
凡人だと生きていけないという強迫観念があるためではないですか。
三沢さんは普通でないくらいに自信がない人で、しかも自信欠如への対応がおかしい。
「自分と乖離した凄い人の虚像を作って身にまとう」という対処のせいで
実像とのギャップが生じてますます苦しみと自信喪失のループに陥っていますよね。
たまに三沢さんの文を見かけるだけの人間でもそういうことを濃厚に感じます。
俗世間の熾烈な競争に負けない「凄い人」になる必要があったかもしれません。
しかし34歳にもなればそんなものを追い求める虚しさは感じられているでしょう。
四国に住んで創作活動人生を送るという願いは素敵だと思います。
叶うと思います。
ただ、その願いの実現ためにまず「凄い人」になる必要があると考えていると
10年後も同じ部屋に住んでると思います。
三沢さんが「凄い人」になろうとする必要性や焦燥は何のためにありますか?
そういう「凄い人」になるための焦りの所産と言うか
人と違うバリューを出すんだという間違った取り組みに見えます。
本を読んでるあいだずっと「面白い独自の感想を言わなければ」とか考えていますよね?
これは大きな間違いで、
本をただきちんと読めて書いてあることを受け取れるなら
高学歴なはてなブックマークの人達だって新聞記事すら読めていないでしょう?
ひときわ壊滅的な集中力しかない三沢さんも苦しみの構造自体は同じです。
三沢さんが人並以上に集中力が欠損しているのも、頭があんまり良くないのも、(本当はなんらかの自覚はある筈です)
本の内容と一体化すべき時にいちいち自分自分をやっていれば本など読めるわけがありません。
おそらく「批判的に読書をする」のようなアイデアをまた草薙さんのようなアレンジをする人から受け取って、
ものごとを正しく見て正しく知ることができ、
というのが仏教です。
三沢さん好みの具体的過ぎる話をするなら
何と言うこともなくすらすらと内容が頭に入ります。
概念を手放していくというのはたぶん三沢さんの溜め込んだメソッドと正反対でしょう。
だから三沢さんが本当に仏教と出会えばじわじわと別人になってしまうはずです。
でもそうならないのはおそらく草薙さんと三沢さんの自我のせいです。
何と出会ったって自分の概念九龍城へ組み込むパーツとしてしか見てないために
まとめると
「自分は有能な凄い人だ」という妄想概念をくみ上げて常にそれを体の周りに装着しています。
このために何を見ても何を聞いても何を読んでもその妄想を通しているために情報が壊れてしまう。
これが自我です。
人の話を聞いてるときに、相手が何を言っているかも何を感じているかもわかりにくくないですか。
もしそうならそれは自我がずーっと邪魔をしていて心が目の前の情報を取れないためです。
全人類がこの病気ではあるけど三沢さんは少し程度が強いのではという印象です。
仏教にはこのガスを取り払うための実践的で研ぎ澄まされたメソッドがありますが
草薙龍瞬さんの本を読むとそういうことまで辿り着けないと思うし
三沢さんは「特別な自分」「オリジナルな自分」について考えこむことが自分の強みであり突破口だと思っていそうですが
そこが一番の間違いであることは仏教なら本当は30分でわかります。
本を読むのにも文をバズらせることにもそんなこと考える必要は一切ないです。
四国へ行きたいならまずその自我妄想と別れを告げることだと思う。
ところでお坊さんを軽々に否定したりしちゃいけないという道徳が自分の中にあるんですが
でも草薙龍瞬さんの本はなんか…。デタラメを言っているとかでもないからなんとも言えないんですが。
AIの危険性を訴えれば訴えるほど権益が強化され、政治的にアンタッチャブルになるシンプルな理由。
それは、「危険ならばなおさら、敵より早く開発しなければいけない」からだ。
そして欧米のような資本主義国では、社会主義の国のように、国益に関わる開発資金を、政治の一存で湯水の如くつぎ込むのは難しい。
だから、開発資金は出来るだけ民間の、経済原理に則るカタチでまわせるようにシステムを作る。
原子力、量子コンピュータ、歴史の中で何度も繰り返されてきた、科学技術研究開発の政治的な基本サイクルだ。
なんで今さら、その程度もことも歴史に学べないのか、反AIは。
AIは、ヤバい。ヤバいから、絶対に開発は止まらない。むしろ加速する。商売としてガッチリ固まる権益になるだろう。
それだけの話。
ワイが型月にはじめて触れたのは、チュンソフトの428のおまけ(?)シナリオのCANAAN
菌類ファンには申し訳ないけど、当時は率直にゴミだと思いました
ほんで怒りに任せて2ch(5ch)で書いたけど、
当時は擁護よりも街シリーズ汚すなゴミ!!って意見の方が多かったよ
(今だったら428本編の方がおまけ扱いされるんだろうな)
オタクの基礎教養枠に入りつつも、2009年くらいまではハイハイ型月厨・型月厨って
空気の方が強かったと思う
触ったら信者がシュバるのでアンタッチャブルになったのソシャゲからよな
あと、菌類もZERO書いたいつも父親殺す人も好じゃなかったけど、
ひでーソシャゲのストーリー(って呼んでいいの?) や なろう見続けてたら相対的に好になったし、
繋げておきますね
正確にいうと文春記事でなんとなく反ワクに流れそうな人へ。
影響力のあるメディアに掲載されたことで反ワク界隈が盛り上がっており、大変危険なので。
反ワク界隈は文春に載ったと大騒ぎですが、それ自体何の意味もないし学術的価値も皆無です。
勘違いしないでほしいのは、ワクチンにリスクが無いと言っているのではなく、そのリスクを評価する場所は下世話な週刊誌やSNSではないということが言いたいのです。
繰り返しになりますが、文春に載ったことには何の価値もありません。
立派な大学の名誉教授という肩書きがあったとしても、所詮は文春記事です。
発熱等の副反応があることも血管系のリスクがあることも最初から分かっていたことですが、それでもリスクをベネフィットが上回るという判断で接種を推進したのです。
これは隠されていたわけではなく、厚労省のホームページにもちゃんと載ってますし、報道もされていました。
だから、「ほらリスクがあった」という指摘は完全に的外れです。
リスクとベネフィットどちらが大きかったかという評価は主観的になりがちなので、SNS等でそこを争うのは無益です。
国がリスクの評価を誤って国民に不利益を負わせたと思うなら司法の場に持ち込むべきでしょう。
この点については、免疫機能の低下などまだ明らかにされていないリスクがある可能性はあります。
接種した人は非常に多いので、これから検証を進めていけばいいでしょう。
ノーベル賞とったからアンタッチャブルなんて科学者は考えません。
そこでわかったことがあれば、週刊誌ではなく学術誌に論文として発表すれば良いのです。
リスクの検証をするなというのではなく、やるなら然るべき場所でやれということです。
真実を知って国や世間と戦っているという認識の方々は勝ち負けにこだわるようですが、国や多くの人々にとって敵はパンデミックであり、反ワクのみなさんとは戦ってません。
ワクチンにこれまで確認されていない副反応やリスクが見つかったとして、別に負けたとは思いませんので、どんどん検証してほしいと思います。
むしろそれは今後の感染症対策にとってプラスに働くので大歓迎です。
ただ、週刊誌で人の不安に付け込んで正確でない情報を垂れ流す行為は、今後の感染症対策の妨げでしかないので心底やめてほしいと思います。
本当に危険だと思っているなら、査読付きの論文を出すべきです。
これは味方の数を競うゲームではないので、勝ち負けではなく正確さを問いましょう。
私からは以上です。
本物のみなさんは情報統制とか言い出してしまうので取り合ってもらえないでしょうが、まだ本物じゃなくて何となく怖いとか不安になってしまった人に落ち着いてもらえたら幸いです。
ちょっとだけ、だけど
スパイファミリーが一時期いきなり過去編やってたの、たぶんウクライナ侵攻はじまったせいだと思うんだけど
スパイファミリーにしても、プリンセス・プリンシパルにしても、東西冷戦終結から30年経過して、
もう関係者不在扱いでファンタジーで遊んでもクレームつかないだろ、っていう感覚で始めたと思うんだよね
なのに東西冷戦復活のようにして絶対悪ロシアが出現してしまった
それまでもロシアはクリミア占領してたり、さんざ悪行やってるだろってのはそうなんだけど、
弄っていいネタかの判断の分かれ目が去年で変わってしまったんだと思う
結果、プーチンがネタ枠からアンタッチャブル枠になったのは興味深かった
プーチンだろうとヒトラー並みの扱いはできないんだ。どんだけヒトラー便利なキャラなんだ、という意味で
一方でイスラエル政権のパレスチナ人ジェノサイドって、日本のそっち方面の対応は何も変わらないんだろうなってのも
今までもずっと見ないフリしかできなかったし、そこは変わらないから、そりゃそうだなと
「キエフの幽霊」みたいな自主製作マンガもアメリカとイスラエルとクレジット会社に怒られるから作られないんだろうなー、と想像つくし