はてなキーワード: にのとは
大島さんやるじゃん!
あの「道に迷った時に」の人だよね。
女性が将棋やってるところが普通に話題になって、当たり前の光景にならないと女子の入門は増えないんじゃないかな。教室に女子1人とか居づらい。
自分も子どもの頃に親と将棋やったけど、とくにのめり込むことはなく終わった。女子がやるものとあんまり認識されてなかった時代。
いい加減こういう間違いは是正しないといけない。そもそも「遊び方にパテントはない」はただの事実だ。遊び方にパテントはないのでオセロとリバーシは共存している。任天堂自身もエムブレムサーガ裁判で著作権侵害では勝てていない(システム面では独自性を認められていない)。
山内社長が「各社技術をオープンにして、それでお互い協力して発展させていきましょう」という考えを披露したのは事実だが、実際はタイトーとナムコが率先してコピー潰しに走り、法的措置が取れるように訴え、そして勝訴し、判例をつくった。その後任天堂もオープン構想を捨てて、コピーは訴える方針に切り替えている。これは1983年時点の話だ。つまり任天堂が「技術はオープンでいきましょう」といっていたのはインベーダーブームから83年の、ごく短い期間の話でしかない。その後はドンキーコングのブームにのり、なによりもコピーに厳しい会社の一つへと成長した。その反面、ゲームデザイン(遊び方)には著作権(パテント)がないのは明白なので、パクリゲーには動けなかった。有象無象のマリオフォロワーにまったく動いていないのは法的に無理筋だったから。
パルワールドに対する任天堂の動きに懸念をもつのは一人のゲームファンとして共感するが、その前口上に「遊び方にパテントはない」はもってきてはいけない。あれは大昔に捨てられた構想だ。
はてな界隈では大学進学、東京で正社員就職、が人生の既定路線として語られています。
しかし現実には大学進学率は60%、東京の昼間人口は日本全人口の13%に過ぎません。
社会の底辺を占める人々をはてな民が認識していないのは社会の階層化が進んだ結果でしょうか。
底辺層も日々普通に暮らし、納税し、選挙では一票を持っています。人生の夢や目標があります。家族がいて子供を育てています。
と、大上段で書きましたが、本音は奨学金をめぐる小泉進次郎氏や河野太郎氏の発言を聞いて底辺層が理解されていない現状・軽んじられている現状に苛立ち、一旦吐き出したい気持ちで書いておきます。
他の党首候補の皆さんも同じですが、奨学金を借りる層を最底辺と思われている節がありますが、その下には借りることを諦める層もいるという話です。
先祖は父方母方共に学がありません。
明治から大正にかけては博打打ち、物乞い、自転車修理などをしており、ホームレスもいたそうです。
昭和に入ると建設作業員、工場労働、トラックドライバーといった職業に就いていました。
戦災や仕事のために西日本を転々とする中で、1991年(平成3年)に中国地方の片田舎でわたしが生まれました。
通っていた公立小学校は治安が悪く、男子生徒が徒党を組んで女性教諭に暴行を働いていました。いじめも多く、暴行や、習字の墨を顔にかける、アルコールランプで服を燃やすといった事件が頻発しており、小3から小6は学級崩壊状態でした。
わたしはイジメが怖いのでなるべく不良に関わらないように逃げ回っていました。昼休みは校舎の裏の木陰に隠れていました。
小6の算数は教科書が半分くらいしか終わりませんでした。この傾向は中学まで続きました。
地域には公営団地が多く所得の低い世帯が多かったため、半袖半ズボンがトレードマークとなっている生徒はわたしの他にも数名いました。
学級崩壊が継続していました。不登校が学年の一割ほどにのぼっていました。
中2の頃に母が体を壊して働けなくなり、経済状況が一気に悪化しました。
1日3食食べられなくなったので、給食のパンを持ち帰り夕食にしていました。土日やパンがない日は近所のミスタードーナツのゴミ箱から廃棄のドーナツを拾って食べていました。
栄養不足のためか、朝礼や体育の授業で倒れることが頻繁でした。
父が電気部品組み立ての内職を持って帰ってくるので、毎晩手伝っていました。ノルマは1日500個で、2時間ほどかけて作ります。家電メーカーに納入されていたとのことなので、皆さんのご自宅のエアコン、冷蔵庫などにわたしが組み立てた部品が入っていたかもしれません。
同級生のあいだではワンピースやハンターハンターといった少年漫画、マリオカートやポケットモンスターといったテレビゲームが人気でしたが、わたしは33歳の現在に至るまで一度も触れたことがありません。
給食がなくなったためミスタードーナツのゴミ箱あさりが毎日のルーティンになりました。なぜミスタードーナツなのかというと、家が近いことと、完成状態で捨てられていたためすぐに食べられたからです。たまに廃棄を入手できなかった日は別の飲食店をあたるか夕食抜きです。
「大学」という施設があることを高校1年生のときに知りました。当時知っていた大学は東京大学、慶應大学の2校です。なぜ慶應かというと当時「学校へ行こう!」というテレビ番組でco-慶應という学生ラッパーが活躍していたためです。
わたし自身が大学に行くかは分かりませんでしたが、文系・理系の選択で文系コースを選びました。
高校2年に上がると学校で全国模試を受けることになりました。毎回全国で2500番〜3000番くらいにランクインし、成績優秀者の冊子に名前が載りました。
模試を受ける際には志望校を記載することになっています。そのときに初めて知ったのですが、大学というものは全国各地に数百校あるらしいと分かってきました。
担任の先生は大学進学を熱心に勧めてくれました。「もしかしたら東京大学や京都大学にさえ進めるかもしれない」…と。大学進学すべきかわたしは迷いました。
担任や、数学の先生、英語の先生が私を放課後に呼び出して、食べ物や飲み物をくれながら、大学進学するように勧めてくれました。
しかしわたしは大学進学しないことに決めました。理由は一点です。
ましてや、実はわたしは既に借金を背負っていました。貧乏で公立高校の学費を支払えないことから、親が銀行から毎月1万円借りており、計36万円を私が将来返済することになっていました。
加えて、担任が試算してくれたプランでは学費(減免の可能性あり)、実家を離れて暮らす生活費が合計毎月10万円ちかくにのぼり、本当にわたしが想像できない金額でした。
学費は減免の可能性がある、最低でも半額は狙えるだろうとか、大学進学により生涯所得がうんと大きくなるといったことを教えてくれました。しかし中学生の頃からミスタードーナツのゴミ箱をあさったり電気部品の内職をしているわたしにとっては現実感のない話です。
想像できないほどの金額を返済できるのか。大学進学したとして就職でつまづいたらどうなるのか。この展望を全く持てないために大学進学しないと決めたのでした。
大学進学しないことを決めると、担任の先生が表計算ソフトの教本を無料で与えてくれました。放課後に情報室のパソコンで練習しました。
高卒の就職活動はなぜか一社しか志望できないというルールが当時あり(現在も「一人一社制」という名前でルールが残っているようです)、わたしは地元の和菓子屋に接客・兼・事務として就職しました。1学年440名中就職は2名で、他438名は大学等への進学という比率の高さに驚いたことを覚えています。
その後父母が鬼籍に入ると、わたしは実家を離れていくつもの会社を転々としています。今では全く別の職業で生活しています。
身軽になった今、あのとき大学進学していれば違う人生があったのだろうかと想像することがあります。
わたしに借金を背負う覚悟がなかったといえばそれまでですが、やはり当時のわたしには覚悟は不可能だったと思います。未成年ができる決断ではない。
河野太郎氏は大学教育費を親負担ではなく本人負担に変えよと述べましたが、貧しい世帯は既に生活費も含めて全額本人負担です。むしろ本人が負担しきれないことが問題なのです。
小泉進次郎氏は必ずしも大学進学の必要はなく手に職を付けよと述べました。しかし転職の多いわたしが言うことでないかもしれませんが、手に職系の仕事も簡単ではありません。
大抵のひとは5年〜10年も同じ仕事を続ければ成長が止まります。しかも年齢を重ねると体に無理が出てきます。かといって独立して料理人が自分の店を経営するとか、建設作業員がひとり親方として営業していくには「手に職」と別種のスキルが必要となり、現場の人間のうちそれができる者は一握りです。
残された道は若手・外国人材・機械化との低賃金チキンレースです。
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台湾に旅行したが、日本より便利だし発展していることに驚かされた。
日本がアジア一の先進国という先入観持ってるやつはまじで危機感持った方がいい。
物価は日本と対して変わらない。でも台湾の方が暮らしやすいし満足がいく利便性があると思った。
たとえば電車やバス。日本は会社独自のオレオレ電子マネー(ayucaとかそういうやつ)が跋扈してるしそもそも現金限定のところが多い。JRなのにSuicaが使えない路線もある。それに対して台湾はすべての会社でipassが使えるので本当に便利。しかも初乗り20元(90円くらい)なので安い。台北だけだろと思うかもしれないが南投とか宜蘭とかの田舎でも全てipass/easycardが使えるという徹底ぶり。それに対して初乗り200円とかとっておいて本数も少なく現金やオレオレ電子マネーだらけのわーくにってほんとクソだなと思う。
本数も少ないしバスはGoogleマップに載ってないし現金払いやオレオレ電子マネーだらけだし日本のバスや電車って何がすごいの?鉄オタとネトウヨには申し訳ないが台湾の捷運やバスの方が顧客目線では利便性高いから。その現実見て台湾を見習ってまずは初乗り140円まで下げて全てのバスでfelica対応しろよ日本の公共交通機関。定時運行や安全性よりも利便性を大事にしろ。
次に高速道路。台湾は台北から高雄まで西部海浜高速、中山高速、フォルモサ高速の3本があり中山高速に至っては桃園から台北は6車線の本線と並行する4車線の快速線があり実質10車線化されている。フォルモサ高速道路は全線に至って6車線で快適である。
これらの高速道路は90年代にはすでに整備が進められ、わずか30年足らずでここまで完成されたことには感激した。一方わーくには新東名新名神ですら計画から40年経つのに未完成という体たらく。横浜の大和トンネルの渋滞が酷いから10年掛けて拡幅?バカじゃねーの?台湾の中山高速みたいに高架で並行別線の快速線整備しろよといいたい。
さらに驚いたのは料金所がないこと。ナンバープレートをカメラで読み取って後から請求されるシステムらしい。それにくらべてわーくにのETC(笑)は(ry
もちろん前までは朝の楽しみになっていたし、夜は少しでもいいスコアを出そうと早寝を心がけていた。
今は寝る前に計測ボタンを押して起きたら止める、日中は数回アプリを開きタスクをこなすの繰り返し。
毎日のルーティンになっている、といえば聞こえはいいが、実際は「ここまでやり込んだのにやめるのか?」という心の声を無視できずに続けているだけ。
一方で「楽しめなくなっているのだから無理して続ける意味はないだろう」という心の声も聞こえてくる。
一度、正直にアプリに対して思っているところを書き留めることで気持ちを整理してみる。
まず、このアプリに対して自分が納得しきれていないのは「運要素が強すぎること」「キャラクター育成のコストが高すぎること」この2点だと思っている。
自分が遊んでいる睡眠計測アプリはキャラクターが出てくるもの。
睡眠計測を終えたらキャラクターが出現するので、アイテムを使って出現したキャラクターを捕獲する。
睡眠計測アプリとはいえ、いわゆるソシャゲなのだから、出現キャラクターがランダムなのは重々理解している。
痛いのは、睡眠の質(深い眠りか浅い眠りだったかなど)やプレイヤーが選んだフィールドによって出現するキャラクターが決まっているところ。
出現するフィールドで遊んだとしても、計測した睡眠の質によってはほしいキャラクターがでない。
睡眠計測アプリだから仕方がないが、睡眠の質を狙い撃ちしたり、1日に何回もキャラクターを出現させることはできない。
この問題は「ゲームランクを上げれば」「課金をすれば」解決できるわけはない。
また、好きなキャラクターが出現したとて、必ずしも捕獲できるとは限らない。
それを満たすと捕獲成功になるのだが、捕獲ゲージを満たす前にゲージが閉じてしまい、捕獲のチャレンジが失敗することが多々ある。
捕獲できるかどうかもにも運要素が絡んでくるのだ。
それに一週間粘ってお目当ては1体も出現しませんでした、なんてことも珍しくない。
朝起きて今日も出現しなかった、今日は出現したが捕獲できなかったというのを毎日毎日繰り返すとさすがに「好きなキャラクターと寝たかっただけなのに自分は一体、何のために何をしているだ?」という疑問が湧いてくる。
このアプリでゲームランクを上げるために必要なことは大きく分けて2つ、キャラクターを育成することと長く続けること。
アプリを続けているとランク上昇率にバフみたいなものがかかる。
積み重ねれば大きい恩恵になるが、そこまで辿り着くのに月単位の時間が必要。
このアプリで遊んだことがない人でも察しがつくだろうが、キャラクターを育成するには睡眠が必要。
育成したいキャラクターを自分のパーティに加えて睡眠計測をするとキャラクターが少しづつ強くなっていく。
またキャラクターが出現した時に落とすアイテムを使って育成をする。
キャラクターの出現はランダムであること、ランク帯や睡眠時間によっては出現数を稼げないことが影響する。
好きなキャラクターを捕獲しても、それ以降同じキャラクターを出現させられなければアイテムが集まらず、育成完了は程遠い。
育成が完了していないキャラクター達でアプリを進めるなら、もちろんランク上げには時間がかかる。
大袈裟な言い方かもしれないが、好きなキャラクターの出現確率を上げられないまま、その時が来るのを待つしかない。
そして、キャラクターの出現が厳しいこと、育成コストが非常に高いことが重なるとまた次の問題が出てくる。
キャラクターの育成し直しがきつい。
やはり普段ゲームをやり込む層からすると、ステータスが高い個体がほしいもの。
そうでなかったとしても、ランク上げが難しいアプリなので、このアプリにおいてはステータスが高い個体がとても貴重かつ重要。
「今度また気に入った個体が捕獲できたらそちらを育成しよう」と思うのがどれだけ難しいか。
長くなったが「好きなキャラクターと睡眠をともにしたい」と思って始めたのに、
キャラクターを出現させられるか、キャラクターを捕獲できるか、高いステータスの個体を引けるかの全てが運試しで、
好きなキャラクター出現させるための、ランク上げのための、育成のための、キャラクター出現待ちとかいう謎のループにいつの間にかハマっている。
ことに嫌気がさしている自分がいる。
睡眠の質を上げるアプリのはずが、睡眠計測しているが実際には寝ていない寝たふりや、計測中に音や振動を加えて睡眠データを調整する小技が存在している点は流石に面白い。
それとこれは推測だが、おそらくここまで運要素が強いのは、普段ゲームをやらない層やゲームが苦手な層でも気軽に楽しんでほしいという運営の思いからなのかと、ふと思った。
「やり込まないと強くなれない」「弱かったり知識がないと好きと言ってはいけない」というイメージが、普段ゲームをやらない層からよりゲームを遠ざけている一因としてあり、
そのためこのアプリでは、運要素をメインに組み立てて、誰でも気軽にできるゲームを目指しているのではないか と感じた。
だとしたら、やれ育成がやれステータスがと言っている自分こそターゲット層から外れているわけで、お門違いなのかもしれない。
もっと気軽にのんびりと楽しむべき、ただそれだけだったのだろう。
ちなみに捕獲したキャラクターたちの寝ている様子が見られないのは本末転倒では?と自分は思うのだが、他プレイヤーはどう思っているのだろうか。
これ、日本人の99%は知らないけど、たぶん鉄オタの間では有名なんだろうね。
俺はこの年になるまで知らんかったよ。
いや、実際に山手線に乗って、一周したもん! と思ったけど、不可能なんだよね。
いやー、マジで知らんかった。
でも【真実】なんて大半にの日本人にとってはどうでもいい、ってことの証左だとも思うわ。
解説は他の人に任せた。
これ、屁理屈とかじゃなくて本当にそうなんよ。「そうともいえる」とかじゃなくて。
環状線みたいなもんだよね、が真実で、だから「山手線」なんだねっていう。
ネットじゃすぐに答え出てくるし、辞書にも環状線の例は「大阪環状線」しか出てこないけど、
ほとんどの人が「デマ」の方を信じてる場合ってコミュニケーション難しいよね。
貧困支援でも難民問題でも歴史問題でも裏金でも政治の話題でも知識の差があると会話は成り立たない。
東京環状線なんてものは存在しないし、山手線に乗ってるつもりの人の大半はJRの嘘に騙されてる。
反日左翼や活動家が景品表示法違反とかでJRを訴えて裁判したりしないのかな?? 羊頭狗肉やん。
これってトリビアになりませんか?
その書中において述べられるところの名文とは、単に美的であるのみならず、情緒に満ち、描写が巧みであり、さらにその文章が臨場感を伴うことにより読者の心に深く響くものである。美しさとは、単に言葉の装飾ではなく、内在する構造の確かさに拠るものであろう。
澁澤龍彦が幻想小説において「幾何学的に書くべきである」と言ったと記憶している。幾何学的とは、感覚的に直感する美麗さと秩序を持ち、その形態は正確かつ普遍的である。正三角形が持つ完全性は、内角の和が常に180度であるという確固たる定理に支えられている。これは、いかなる変形にもかかわらず揺るがない事実である。その普遍性こそが美であり、幾何学的美しさの本質を成す。
このように、文章にも同様の美的秩序が存在するのではないかと考える。たとえば、三角形の定理を文章に適用するならば、各要素が一貫して調和する様は正三角形のごとくである。三角形の三つの頂点に当たる要素は、物語の構造、感情の動き、そして読者への影響であろう。この三者が均衡を保つとき、文章は完全な形となり、名文と称されるに値する。
恋愛においても、幾何学的な要素が見て取れる。愛する者、愛される者、そしてその間に存在する感情。この三つの要素が整ったとき、恋愛は完全な形を成す。しかし、その一部が欠けたとき、三角形は不完全となる。非モテであるという状況は、その三つの内角が揃わず、歪んだ三角形のような状態である。だが、その歪みの中にも、何らかの秩序と美しさが宿っていることを認めざるを得ない。
幾何学的な美しさは、完全性の中にのみ存在するのではない。むしろ、不完全な中にも美しさは潜んでいる。それは、欠けた部分があるからこそ生まれる緊張感であり、そこに宿る秩序の欠如が逆説的に美を生むのである。モテないという状況も、ある種の幾何学的な不完全さであり、その不完全さが一つの形を成し得る。
私は三角形になりたいと願う。完璧であり、無駄がなく、全ての要素が調和している。しかし、不完全なままであることもまた一つの形であり、その不完全さの中にこそ真の美が宿っているのではないか、とも思うのである。
幾何学的文章の美しさとは、表面上の整合性だけではなく、そこに潜む感情や臨場感をも含むものである。その幾何学的な秩序と情感の融合こそ、真に名文たる文章の本質であろう。
東京 豊島区は職員84人が届け出ていた手段や経路と異なる方法で通勤し、不正に手当を受給していたと発表しました。総額は980万円にのぼり、区では再発防止に向けて確認方法を見直すことになりました。
せめて返金させろ!
見直すだけで終わりとか無いわ
生成 AI について、イラストや音楽等はかなり危険だと考えております。クリエイティブな分野は何故素晴らしいのかと言うと、人間が自身で考え、自身の手とスキルで作り上げるから素晴らしいのです。
私たちは作品からクリエイターの気持ち等を考察しながら作品を評価しています。
機械で生成された何の気持ちも篭ってない作品を見せられてパッと見が良いから良いやみたいないい加減な気持ちで評価する事なんてできません。
皆さんは効率がいいから生成 AI を推奨しているのかもしれません。しかしどんなに技術が向上しようと人の手で作られた作品に敵うわけがありません。例えば何の面白みもない、こだわりも無いアニメや音楽で溢れかえる世界になるなら絶望しかありませんね。皆さんは昔見た漫画やアニメを覚えていないんですか?皆さんが感じた感動は人の手でなければ作れません。
生成 AI によって医療の向上などが出来ると言われますが生成イラスト、音楽になんの関係があるのでしょうか?クリエイターに迷惑をかけているのしか見たことがありません。具体的にどんな貢献がされているのでしょうか?意味の無い AI 開発なんて止めるべきです。
他者に生成 AI を使用させるのも悪影響を及ぼしています。X 等で生成 AI を使用している方々を見てみたらわかります。悪意ある発言、自身の利益や名誉の為に他者を侮辱する発言が多くあまりにも人間性がありません。特定のクリエイターの作品を学習し、絵柄データとして配布している方もいます。あんな人達にクリエイター達が苦しんでいるのは見たくありません。
現状 AI を使用している無礼な方々が使えるような状況は良くありません。
クリエイター文化を壊す行為です。クリエイティブはそれが自分の手で(イラストであれば紙とペンと自分の手でもイラストを描けるスキルのある方)作れる人間にのみ委ねるべきです。