戦争論 クラウゼヴィッツ 論点1
戦争とは拡大された決闘である。
宮本武蔵も「五輪書」の中で「戦(いくさ)は一対一の決闘と同じ」という解釈をしている。
「関ヶ原の戦い」に一兵卒として従軍した経験があるとしても、宮本武蔵の半生は一対一の決闘がほとんどだった。よって、宮本武蔵からそういう結論が導き出されるというのは想像に難くない。
一方、クラウゼヴィッツはどうであろうか。彼は父がプロイセン軍の軍人だったこともあり、幼いころから軍の中で育ち、士官学校に通い、将校になり、軍として闘った。その彼が「一対一の決闘」と「集団(国家)対集団(国家)の戦い」を同一視する理由はなんであろうか。
彼は戦いの過程や形態を論じているのではなく、その「目的」という意味で、「一対一の決闘」と「集団(国家)対集団(国家)の戦い」は同じだと定義づけている。
では、その「目的」とは何か。
それは、「自らの意志を相手に押し通す」ということに他ならない。何かを行おうとした時に、邪魔するものを排除し、目的を完遂する。これが「戦争」というものであると言っている。
戦争論 クラウゼヴィッツ 論点2
科学技術の援用による武装
クラウゼヴィッツは、敵国の侵略に対するものは、科学技術によって生み出された兵器による武装であると説いている。
クラウゼヴィッツより前の戦争形態はどのようなものであったろうか。兵士の多さ、司令官の有能さ、勇猛な戦士、将軍の数、軍令の徹底、兵士の体力と統率のとれた機敏な動き、など、戦う戦士のレベルと数、司令官のレベルに依るところが多かった。
クラウゼヴィッツの考え方を一変させたのは、ナポレオンの存在だった。ナポレオンが天才的な司令官であり、勇猛であったことはもちろんだが、ナポレオンは大砲を実践で見事に活用した最初の将軍と言っていい。
大砲は相手への威嚇としての存在は認められていたが、実際に敵にどれだけ損害を与えるかというと疑問符のつく兵器だった。ナポレオンはまだ名もなき将校だったころから、大砲に関心を持ち、まだ駆け出しのころは大砲エンジニアであったのだ。軍の中では閑職といってもいいポジションだ。
ナポレオンは、大砲の精度(偏差値)の向上、連射間隔の短縮など技術革新をし、実践運用に堪えうる兵器としたのだ。
一つの兵器が敵兵百人を殺傷する能力を持つとすれば、兵数の多さは勝敗を分けなくなる。第一次大戦では戦車をはじめとする新兵器の存在が戦線の大きな影響を持つようになったことは周知のことだが、第一次大戦前の時代に生きたクラウゼヴィッツが科学技術の発展によって誕生する新兵器が敵国から自国民を守ると洞察していたのには驚嘆を覚える。
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