教訓伝えてこその震災遺構 [歳月]<最終回 5>

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 東日本大震災の被災地は、復興事業によって大きく変貌へんぼうした。それは同時に、被災の痕跡が消し去られたことも意味する。保存か解体かの大議論の後、校舎やホテルなどがいま、震災遺構として残された。ただ、課題は依然としてある。だれに、なにを伝えるか――。

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議論ないまま消滅も

 全長60メートルの巨体が残っていたら、どんな街になっていただろうか。宮城県気仙沼市の沿岸から約800メートルの鹿折ししおり地区に打ち上げられた大型漁船「第18共徳丸」のことだ。

 総トン数約330トン。津波で陸に入り込んだ船の中では最大クラスだった。日に十数台のバスが止まり、多くの人が、途方もない津波の威力を実感していった。市は保存し、一帯を祈念公園として整備する方針を復興計画に盛り込んだ。

 しかし、2013年の市民アンケートで約7割が反対。「震災の記憶を思い出す」「整備運営費がかかる」などが理由だった。計画は撤回され、その年の秋、船は解体された。スクリューは売却、鉄は車の部品やマンホールになったという。

宮城県内15か所に設営された仮埋葬地(2011年3月)=東松島市提供
宮城県内15か所に設営された仮埋葬地(2011年3月)=東松島市提供
現在は火葬場として利用され、名残をとどめる
現在は火葬場として利用され、名残をとどめる

 仮埋葬地も消えた。

 <多くの犠牲者への応急対応がいかに困難を極めたかという証し>。大学教授らのグループ「3・11震災伝承研究会」が選んだ遺構候補の一つだ。

 宮城県内6市町は、遺体を一時的に土葬し、火葬時に掘り起こす緊急手段を取った。死者が多すぎて火葬が追いつかなかったのだ。法律には、首長の許可で土葬できるとの規定がある。

 多くが保存の検討もされないまま姿を消したが、気仙沼市で妻順子さん(当時53歳)を仮埋葬した菊田隆二さん(61)は、泣きながら遺体に土をかけた経験が今も忘れられない。「どれだけひどい災害だったかがわかる。残してほしかった」

 300人以上の遺体を土葬した東松島市の仮埋葬地の上には火葬場が建設された。かろうじて記憶をとどめるが、案内板などはない。

憎さ薄れ 祈りの場

 遺族の思いは一様ではない。心の痛みと、伝える意義のはざまで揺れる人もいて、多数決になじむ問題でもない。その点、別の時間軸と第三者を介在させ、遺構議論をクールダウンさせた宮城県南三陸町のケースは今後の参考になる。

 問題になったのは、職員ら43人が犠牲になった旧防災対策庁舎。当初は解体予定だったが、保存を求める声を受け、判断を震災20年まで先送りにし、管理を県に委ねたのだ。

 骨組みだけの庁舎の周囲には、震災復興祈念公園が整備され、いまや実質的に遺構になっている。同県気仙沼市の村上勝正さん(71)の長男宏規さん(当時33歳)は、庁舎に避難して行方不明になった。村上さんにとって当初庁舎は「憎い建物」でしかなく、早期解体を望んだが、歳月とともに、月命日に手を合わせるかけがえのない場所になった。いまは「宏規が最後に地に足を着けた場所」と思える。

同情に終始 本質失う

 国は今回の震災で、各市町村1か所ずつ遺構保存の初期費用を負担する枠組みをつくった。だが、これが遺構保存の意欲や機運をそいだ可能性がある。独自に整備したのは、仙台市と宮城県石巻市のみだ。

 悲惨さばかりを強調する施設ではいけないと指摘するのは、震災に関わり続けた元国土交通省次官の徳山日出男さん(64)だ。「この教訓は、あなたたちの問題だ、と伝えることが重要で、同情してもらうための施設になってはいけない」

 遺族感情や費用負担などを理由に、多くの遺構が消えた被災地。10年をたどるには、想像力と予備知識のコンパスが必要になる。

 例えば、福島県富岡・大熊・双葉3町を貫く国道6号を車で走れば、東京電力福島第一原発事故に伴う帰還困難区域という不可視のエリアを見ることができる。約14キロにわたる道路沿いに、解体されず残る廃虚が点在するからだ。ショーウィンドーのガラスが割れた富岡町の自動車販売店は、原発事故10年の遺構でもある。

 構造物には、それを造った当時の人間の意志も表れる。沿岸部で建造が続く防潮堤などがそうだ。

 宮城県石巻市の雄勝地区には、震災前の倍近い高さ9・7メートルの防潮堤が城壁のようにそびえ立つ。地区の人口は震災前の4分の1に減少。「本当に必要なのか」という批判も根強い。

 60ヘクタールを超す市街地が浸水した岩手県宮古市では、高さ34メートルの巨大水門の建設が進む。百数十年に1度の津波も防ぐとされる。

 自然を技術で食い止める。ここに、なにを、どう読み取るか。海から、集団移転の新しい街や、土で何メートルもかさ上げされた街を見るとき、復興をとげたこの光景も、人間の意志を表す遺構なのだと気づく。

観光客誘導の工夫を

荒浜小を視察する井出明さん(1月24日、仙台市若林区で)
荒浜小を視察する井出明さん(1月24日、仙台市若林区で)

 負の歴史をたどる「ダークツーリズム」の国内第一人者で、金沢大准教授の井出明さん(52)(観光学)とともに、仙台市の震災遺構・荒浜小学校と、伝承施設のある宮城県名取市閖上地区を訪ねた。井出さんの視点から、震災の脅威を伝える構造物を生かし切れていない被災地のいまが見えてきた。

 校舎1階のはがれた床、壊れた蛍光灯、午後3時55分で止まった体育館の時計。2017年から一般公開が始まった同校は、海外からの視察も相次ぐ施設だ。

 同校では、屋上に避難した児童や教職員、住民ら320人が助かったが、井出さんが問題視したのは、この事実を伝える説明のパネルだった。「屋上に避難したら津波は、偶然2階で止まったということ。それでは教訓にならない」。なぜ生き延びることができたのか、生死の分かれ目は何だったのか。教訓がないというのだ。「学校防災」という観点からの展示が少ないことも気になったという。

 約750人が犠牲になった名取市閖上。慰霊碑は残るが、震災の爪痕を感じられる遺構などはほぼない。こうした地域では、被災の記憶が失われる可能性が高くなる。そんな中で井出さんが「観光マップにも載せるべき場所」と注目したのは、商業施設近くのスペース。幼い子供を失った夫婦が自宅跡地に整備した約20平方メートルの小さな花壇だが、悲しみの記憶を継承する力があり、観光客も改めてここは被災地だと認識できる、と解説してくれた。

 ナチスによるアウシュビッツ強制収容所や、広島市の原爆ドームなどに代表される負の痕跡を訪ねるダークツーリズムは、単に教訓を学ぶだけでなく、遺構周辺の宿泊施設や土産店などに経済的効果も及ぼし、復興にも寄与する営みを指す。「遺構で地域全体の観光が潤うという観点も忘れてはならない」と井出さんは話した。

 取材・宇田和幸 デザイン・閑野朗子

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1887313 0 企画・連載 2021/03/05 05:00:00 2021/03/10 09:44:53 /media/2021/03/20210304-OYT1I50077-T.jpg?type=thumbnail

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