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美作の85歳・吉岡さん
風評被害恐れ「ずっと話せなかった」
1945年8月6日、広島に原爆が投下され、同年末までに約14万人の命が失われたと推計されている。あれから79年。生き延びた被爆者は今も差別や偏見を恐れて生きている。美作市の吉岡美子さん(85)もその一人だ。長らく被爆の事実を明かすことはなかったが、「もう二度と同じ気持ちを誰にもしてほしくない」と勇気を振り絞り、家族に伝え始めた。(浜端成貴)
吉岡さんは広島市出身。原爆投下後の45年8月13日、疎開先の広島県白木町(現・広島市安佐北区)から自宅の様子を見るため、母の佐々木マツノさん(1999年に87歳で死去)と市内を訪れ、入市被爆した。壊滅した広島で家を失い土管の中で生活していた人や食べ物がなく配給に並ぶ人など、見た光景は今もはっきりと覚えている。
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しかし、被爆の過去は、風評被害を気にしてずっと口にしてこなかった。25歳の時、被爆者ではない夫の繁美さん(2023年に85歳で死去)と結婚した後も、被爆者健康手帳を取得した50歳の時まで告げなかった。
マツノさんは終戦直後から、被爆の惨状を示すものを後世に残そうと町中に落ちていた熱線で溶けたガラスや陶器を拾い集めていた。「こんな事はもう二度と起こしてはいけない。孫ができたらこれを見せて被爆の実相を伝えてあげて」と、94年に吉岡さんに譲り渡した。
同じ頃、吉岡さんは繁美さんの実家があった美作町(現・美作市)に住み始めたが、風評被害への不安から、被爆者であることを隠し続け、譲り受けた品々も押し入れにしまい込んでいた。
話すようになったきっかけは次女の稲垣和子さん(56)だ。母から被爆の話は聞いていなかったが、子どもの頃に家族で原爆ドームを訪れた際に吉岡さんの表情や話しぶりから、子どもながら、母が被爆したことに気づいた。父・繁美さんから詳しいことをいつか聞きたいと思っていたが、繁美さんは23年に死去。以降、母に「被爆者が少なくなっている中で戦争はいまだに起きている。後世に伝える方が大切だと思う」と訴えかけてきた。
ロシアのウクライナ侵略やイスラエルのパレスチナ自治区ガザでの戦闘――。世界で起きている現実に「また核兵器が使われる時代になってはいけない」と、吉岡さん自身の気持ちにも変化が表れるようになった。
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6月30日、吉岡さんは自宅で和子さんと孫の仁人さん(27)、佑都さん(24)に囲まれながら、初めて被爆当時の光景を証言した。「子どもや孫に遺伝したり、縁談に支障が出たりしないかと怖くて、ずっと話せなかった」と気持ちも伝えた。
仁人さんと佑都さんは「僕らは健康に生まれ育ったし、全く気にしない」。和子さんは「お母さんは被爆者が差別や偏見を受けた戦後の時代のまま時が止まっている。戦争はまだ終わっていないんだね」と語りかけた。
和子さんは「岡山『被爆2世・3世の会』」に所属しており、母の体験を会合で証言していくつもりだという。
吉岡さんは「そのときどう感じたかは生きているうちにしか伝わらない。若い世代が『気にしない』と言ってくれたことが本当にうれしい。これから母や私の思いを受け継いでいってほしい」とホッとした表情で話した。マツノさんから譲り受けた品々は和子さんが引き継ぎ、証言に生かしていくつもりだ。
語ってもらえる環境づくり必要
厚生労働省によると、全国の被爆者(被爆者健康手帳所持者)は今年3月末で10万6825人(平均年齢85.58歳)と、1年前と比べて6824人減った。
広島市は3万7818人、長崎市は1万8904人と多くいる一方で、日本原水爆被害者団体協議会の「北海道被爆者協会」が2025年3月末で解散する北海道では185人。最も少ないのは山形県の6人だ。
岡山県には884人いるが、年々減っている。人口約2万5000人の美作市には、吉岡さんの他に数人の被爆者しかおらず、16年に同市を管轄していた同「岡山県原爆被爆者会」の勝英支部が解散し、20キロ以上離れた同会津山支部に統合された。
広島大学平和センターの川野徳幸センター長(原爆・被ばく研究)は「広島や長崎以外の地域では、被爆の実態の理解に大きな差がある。全国で被爆者が少なくなる中、経験者の言葉は重い。国や自治体が被爆者に語ってもらえるような環境づくりやサポートに取り組むべきだ」と話している。