完了しました
吉本興業に所属する77歳のピン芸人「おばあちゃん」が、若手に混じって舞台に立っている。小学生の頃から病気の母親に変わって家事を引き受け、38歳でステージ4のがん告知を受けたが、働きながら抗がん剤治療を続け、47歳で大学を卒業。会社も定年まで勤め上げた後、退職後の第2の人生に「お笑い芸人」を選んだ。波乱万丈の経歴を持つ「おばあちゃん」に人生100年時代を楽しく生きる秘訣を聞いた。
ネタはシルバー川柳
「おばあちゃん」の芸名で活動するのは沖原タツヨさん(77)。M―1グランプリ2023で優勝した「令和ロマン」らが育った東京・神保町にある「神保町よしもと漫才劇場」の舞台に立ちネタを披露している。
高齢者の目線から、生活に身近なところにテーマを探してネタ作りをしている。
ある日、自宅の玄関のチャイムがなった。膝が悪く、機敏に対応できず、ようやく玄関を開けると宅配業者の不在票だけが残っていた。このエピソードでシルバー川柳を作った。
チャイム鳴り やっと出たのに 不在票
思いついたネタをすぐに書き留めておけるようにメモ帳を持ち歩いている。しかし市販のノートではなく、薬をもらった時に渡される「薬剤情報提供書」の裏紙をホチキスで留めて使う。「一番おちついてネタを考えられる」というトイレにもメモ帳は置いてある。
38歳、ステージ4の乳がんが発覚
沖原さんは4人きょうだいの唯一の女の子として東京都国分寺市で生まれ育った。病気になった母親に代わり、小学4年生の頃から食事の支度から洗濯、掃除、すべて全てをやるようになった。
この時、楽しみだったのが「中田ダイマル・中田ラケット」「かしまし娘」などのお笑い。家にテレビはなかったので、電気店の店頭から流れるラジオを聞いた。
大学進学を夢見ていたが、「女に学問は必要ない」という時代。きょうだいの中で唯一中学を卒業後に働き始めた。
結婚後、共働きでがむしゃらに働いていた38歳の時、ステージ4の乳がんが発覚。後でわかったことだが家族は医師からは「あと半年持つかどうか分からない」と告げられていたという。左胸を全摘出して抗がん剤治療を受けたが、卵巣や子宮にも転移。約8年間、入退院を繰り返した。この経験から沖原さんは「生きているのは当たり前ではない、やりたいこと全部やってみたい」と思うようになった。
働きながら通信制の高校、短大を経て4年制の大学に進学して卒業。会社も定年まで勤め上げた。
その後は高齢者劇団に所属。自分を成長させようと舞台の勉強をするために、芝居の学校に問い合わせたが、年齢制限で受け入れてくれるところはなかった。その中で唯一、受け入れてくれたのが吉本興業のタレント養成所・NSC(吉本総合芸能学院)だった。「お笑い芸人になるつもりではなく、お笑いを学べば演劇の幅も広がるかな」という気持ちで、71歳だった2018年に入学した。
その後も失明した兄の介護、夫が肺がんの告知を受けるなど波乱万丈の人生は続く。その中でも、孫世代の若手に混じってお笑いの勉強を続け、卒業。本人もよくわからないうちに2019年にデビューした。
デビューから5年目の2023年6月には500~600組が競っているオーディションを勝ち抜き、「神保町よしもと漫才劇場」の所属メンバーに合格。2024年2月12日に初の単独ライブを開催した。
おせんべいを配って若手と交流
劇場ではおせんべいを配って仲間の芸人さんと交流を図り、若い人の言葉や文化も教えてもらっている。
ずっと食べるあんパンの一種だと思っていた「腰パン」の本当の意味も覚えた。若い女性の芸人さんからは人生の先輩として恋愛相談も受ける。
人生100年時代を生きるには…
苦労が絶えなかった人生のように見えるが沖原さんには振り返って話すときも明るい。なぜ、いつも前向きに進むことができるのか聞くと、「最近の若い人は『親ガチャ』といって境遇のせいにすることがあるようですが、私は人のせいにはしなかった。親が学校に行かせてくれなければ自分で働いて行けばいい、それだけ。人のせいにしても状況は変わらないので、自分は何をすれば進んでいけるだろうか、それだけでした」と答える。
それがなぜ実現できるのか重ねて聞くと、「プライドを持たないことですかね。プライドがなければ傷つきようもない。基本的には能天気な性格でしたのでそれが良かったのかもしれませんね」と笑った。
◇
77歳の吉本芸人、おばあちゃんの人生をまとめた本「ひまができ今日も楽しい生きがいを―77歳 後期高齢者 芸歴5年 芸名おばあちゃん―」(1,500円=税込み、発行:ヨシモトブックス)を、読売IDをお持ちの方5人にプレゼントします。応募はこちらから。