「江戸の知事」大岡越前が職をかけて取り組んだ物価対策とその結末

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編集委員 丸山淳一

 史上最多の56人が立候補した東京都知事選は、現職の小池百合子氏が大差で3選を果たした。東京には日本の人口の1割超が住み、大企業の本社も集まり、特別会計などを合わせた都の今年度予算総額は16兆円を超える。欧州の中規模の国並みの人口と予算を持つ東京都の知事は、時には日本政府の政策をも動かすことができる強い力をもつ。

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激務の町奉行に40歳で抜てき

3選を決め、支持者に手を振る小池知事(7月7日、東京都新宿区で)
3選を決め、支持者に手を振る小池知事(7月7日、東京都新宿区で)

 江戸時代に東京都知事にあたる仕事をしていたのは江戸の町奉行だ。悪人に裁きを下すだけでなく、町奉行は江戸の民政全般を担い、やはり幕府の政策をも動かす力を持っていた。それだけに豊富な経験と高い行政手腕が必要とされ、60歳前後で就任する例が多かった。

 南北2人の町奉行が月番制で仕事を分担したが、それでも相当な激務だった。徳川家康(1542~1616)が江戸に入ってから明治維新までの約300年で南北あわせて約100人が町奉行を務め、平均在職期間は5~6年程度。中には在任中に過労死する町奉行もいたという。

『大岡越前7』から忠相を演じる高橋克典さん(C)NHK
『大岡越前7』から忠相を演じる高橋克典さん(C)NHK

 40歳でその町奉行に就任し、19年6か月にわたって江戸の民政を担ったのが大岡越前守 (ただ)(すけ) (1677~1752)だ。8代将軍徳川吉宗(1684~1751)の右腕としての活躍は歌舞伎に始まって、映画やテレビドラマで何度も描かれ、今もNHKBS時代劇『大岡越前7』が放送(日曜午後6時45分~)されている。今のシリーズから忠相役が高橋克典さんに交代したが、59歳の高橋さんは忠相が町奉行を退任した年齢で忠相役に“就任”したことになる。高橋さんが演じる清新な忠相を見ていると、さらに20歳近く若い忠相がいかに抜てきされたかがわかる。

「大岡裁き」はほとんどフィクション

「大岡裁き」のシーンはドラマではクライマックスだが、忠相の仕事はそれだけではなかった(C)NHK
「大岡裁き」のシーンはドラマではクライマックスだが、忠相の仕事はそれだけではなかった(C)NHK

 裁判は町奉行の仕事の一部に過ぎないとはいえ、「大岡越前」といえば捕物やお 白洲(しらす) のシーンが思い浮かぶ。実際に忠相は誤認逮捕で火あぶりの刑になる直前に放火犯とされた町人の 冤罪(えんざい) を晴らしているし、罪人の家族の連座制を廃止するなど、刑罰の合理化や裁判の迅速化にも取り組んでいる。だが、「大岡裁き」と呼ばれる名判決は、ほとんどが幕末に (へん)(さん) された『大岡政談』に書かれたフィクションだ。

勝村政信さんが演じる小石川養生所長の蘭方医、榊原伊織(左)は忠相(右)の幼なじみ。忠相は養生所の運営に深く携わった(C)NHK
勝村政信さんが演じる小石川養生所長の蘭方医、榊原伊織(左)は忠相(右)の幼なじみ。忠相は養生所の運営に深く携わった(C)NHK

 一方で、江戸の防災対策や福祉政策に残した功績はほぼ史実だ。江戸の大火を防ぐため、防火帯と避難場所を兼ねた「 ()(よけ)() 」を市内各地につくり、いろは四十七組町火消を組織した。福祉政策では貧しく身寄りがない病人を無料で治療する小石川養生所を設置している。予算を獲得して作って終わり、ではなく、組の動員力などをみていろは組を10グループに再編したり、養生所の敷地内に家を建てて賃料を運営費に回したりして、新たな仕組みがサステナブル(持続的)に機能するよう目配りも欠かしていない。高札などで“公約”した政策は途中で投げ出さなかった。

 風俗の取り締まりや綱紀粛正にも力を入れ、何をするとどんな罪になるのかを細かく規定した。心中を防ぐため、流行していた「心中物」の出版・上演を禁じ、だれがいつ出版したのかを示す「奥付」を書籍につけることを義務づけて海賊版の発行を防ごうとした。細かすぎる統制には「統制する側」の 恣意(しい) 的な取り締まりを防ぐ狙いもあったという。

物価対策の一環だった?「新田開発」

徳川吉宗(『日本歴史中巻』国立国会図書館蔵)
徳川吉宗(『日本歴史中巻』国立国会図書館蔵)

  ()(かた)()(よう)(がかり) を兼務して関東の農政も手がけるようになってからは、新田開発に力を入れた。山林伐採が洪水を招き、農地を作っても耕す農民が見つからないなどの問題が起きたため、吉宗は新田開発に消極的だったというが、忠相は商人ら町人請負による新田開発を解禁することで開発費を手当てし、武蔵野(現在の埼玉県、東京都西部など)の開発を進めている。

 歴史学者の大石慎三郎(1923~2004)は、『大岡越前守忠相』の中で、忠相が町人請負の新田開発を進めたのは、江戸の物価対策の一環だったと分析している。物価高は商人が商品流通や金融を牛耳っているためとみて、商人の資本を新田開発に振り向けさせて、流通・金融市場から遠ざける狙いがあったというのだ。

 その真偽はともかく、忠相が最も知恵と労力を割いたのは、物価対策だったことは間違いない。よく江戸の町奉行は都知事、警視総監、消防総監、最高裁判所の判事を兼ねていた、といわれる。任期途中から忠相は地方御用掛も兼務して関東農政局長の仕事もしているが、町奉行就任直後から日本銀行総裁も兼務していたといえる。日銀は物価や景気の動向を見ながら、金融政策を通じて世の中に出すお金の量を調節し、為替相場に介入する実行部隊でもあるが、忠相も江戸の物価安定のための金融政策を実行し、為替相場に介入しているのだ。

“官製談合”まで試みて金銀相場に介入

 江戸時代には江戸では金、大坂など (かみ)(がた) では銀が基軸通貨だった。幕府や大名は年貢米を「天下の台所」と呼ばれた大坂で商人に売って銀に換え、幕府や東日本の大名は今の銀行にあたる両替商で銀を金に換えてもらっていた。金と銀の交換レートは日々変動し、幕府が定めた公定レート通りではなかったが、幕府は相場を市場の実勢に委ねていた。

 大石の前掲書によると、当時の江戸は酒の3割、油の7割、しょうゆは全量を西国・上方に頼っていた。銀高金安になると上方から江戸に入ってくる商品は値上がりし、関東を拠点とする幕府の出費も増えてしまう。円安が輸入品価格を押し上げ、食品や燃料費などの値上げが相次ぐ今と同じことが起きるわけで、幕府にとって急激な銀高は好ましくない。

各年のレートは最高値。『両替年代記』のデータなどをもとに筆者作成
各年のレートは最高値。『両替年代記』のデータなどをもとに筆者作成

 だが、忠相の町奉行就任から間もない享保3年(1718年)に、その好ましくないことが起きた。銀が当時の公定レートだった1両=60 (もんめ) から上昇し、1両=40匁台前半まで銀高が進んだのだ。

 両替商が不正にレートを操作して私腹を肥やしているとにらんだ忠相は、ただちに両替商を呼びつけ、公定レートまで銀を引き下げるよう命じた。事実上介入に踏み切ったわけだが、両替商は「われわれが不当につり上げているわけではない」と応じない。そこで忠相は両替業務を引き続き認める両替商の数を限定し、引き続き両替商をやりたいなら、みなで結託して銀レートを下げよと命じた。いわば官製談合で相場に介入しようとしたわけだ。

江戸時代の両替商(『人倫訓蒙図彙<きんもうずい> 第4巻』国立国会図書館蔵)
江戸時代の両替商(『人倫訓蒙図彙<きんもうずい> 第4巻』国立国会図書館蔵)

 両替商はこの提案も拒み、「われわれが不正に銀相場をつり上げているなら、両替をやめれば銀安になるはず。お疑いならわれわれはしばらく休業する」と、相次いで店を閉めてしまった。江戸の経済は大混乱に陥り、結局、翌年に忠相はこれ以上の介入をあきらめる。

 ちなみにこの時の銀高は、幕府の通貨政策の失政が原因だった。五代将軍綱吉(1646~1709)のもとで勘定奉行を務めた荻原重秀(1658~1713)は銀高を防ぐため、貨幣改鋳で金と銀の含有率を減らす際に銀の方を大きく減らしたのだが、重秀が大嫌いだった新井白石(1657~1725)は、含有率を家康の頃に鋳造された慶長金銀に戻す改鋳(正徳金銀)を行い、重秀のレート調整をご破算にしてしまっていた。吉宗も江戸と上方経済の状況を踏まえずに正徳金銀の普及を進め、これが銀高金安を招いたわけで、レートを不正に操作していないという両替商の言い分は正しかった。

貨幣改鋳を提言、渋る吉宗を説得

 その後、落ち着きを取り戻していた銀相場は享保7年(1722年)になると上昇し始める。物価 (ひき)(さげ) 令の発布など、物価対策に本腰を入れていた忠相は、再び両替商に銀高の是正を命じるが、この時も効果はなかった。忠相は両替商に命じるだけでは介入しても効果がないことを悟ったのだろう。ついに金融政策、すなわち貨幣改鋳による銀の引き下げを吉宗に提言する。

全国の米は「天下の台所」と呼ばれた大坂に集められ、江戸に送られた(『摂津名所図会』国立国会図書館蔵)
全国の米は「天下の台所」と呼ばれた大坂に集められ、江戸に送られた(『摂津名所図会』国立国会図書館蔵)

 吉宗は貨幣の質を落とす改鋳に強く反対するが、忠相は米が豊作で米価が下がっていたことを説得材料にした。通貨の質を落として大量に発行すればインフレになり、金銀を得るために幕府や大名が売る米の量が減る。市場に出る米が減れば米価は持ち直し、幕府収入の目減りも防げる――。「米将軍」と呼ばれるほど米価調整に苦労していた吉宗は、最後は忠相の改鋳案をのんだ。

忠相が改鋳した元文小判(左)と元文丁銀(国立文化財機構所蔵品統合検索システム=https://colbase.nich.go.jp/)
忠相が改鋳した元文小判(左)と元文丁銀(国立文化財機構所蔵品統合検索システム=https://colbase.nich.go.jp/)

 こうして発行された元文金銀は、金貨より銀貨の質を大きく引き下げている。忠相は銀高はおさまると考えただろうが、そうは問屋がおろさなかった。質が悪い通貨との交換を嫌って正徳銀が蔵にしまわれ、発行直後に市場に出回る銀が減って銀相場が急上昇したのだ。

両替商との対立収拾のため“栄転”か

 忠相は三たび両替商を呼びつけ、旧銀貨の放出を命じようとしたが、それを予期した両替商は多忙などを理由に代理の手代を出頭させ、町奉行の言いなりにはならない姿勢を示した。忠相は相場の不正操作を吟味するため、として手代たちを 牢屋(ろうや) に入れた。手代がいなければ両替商は営業できない。経済は混乱するが、町奉行の職を賭する覚悟の忠相も折れず、両替商から出ていた手代の釈放願も却下し続けた。

 2か月近く続いた対立は、突然発令された忠相の人事異動で収拾する。忠相は町奉行から寺社奉行になり、後任の町奉行が手代を釈放し、今後は相場操縦は慎むようにと申し渡して決着したのだ。寺社奉行就任は栄転で、忠相は旗本から大名になったが、町奉行を退任したことで多くの権限を失っている。対立収拾のため、寺社奉行にまつりあげられたというのが真相のようだ。忠相が職を賭して両替商におきゅうをすえたことが功を奏したのか、金銀レートはようやく安定し、元文金銀は江戸時代を通じて最も安定した通貨となった。

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