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日本、ドイツに最後通牒
日本政府は、ヨーロッパでの戦争勃発(1914年7月)を知ると、素早い反応をみせました。日英同盟条約上、日本には参戦の義務はなく、イギリスも日本を戦争に引き込むつもりはありませんでした。ところが、1914(大正3)年8月4日、イギリスはドイツに宣戦布告すると、同7日、中国沿岸におけるイギリス商船の安全確保を図るため、ドイツの武装艦船を撃破するよう要請してきました。
日本政府は、同8日の閣議で開戦を決定します。政府は、参戦理由をイギリスとの「同盟の
イギリスは、日本の余りに積極的な提案に権益拡張の企図を感じ取り、日本への支援要請を取り下げました。これに対し、加藤高明外相は、天皇の裁可を得た参戦方針は変えられないとして押し返し、ドイツ租借地の
イギリスが日本の軍事行動を局限化しようとしたのは、日本の自由行動は豪州やニュージーランドなどの英自治領に脅威を与えるだけでなく、日英同盟を嫌悪しているアメリカの世論の反発を招く恐れがあったためでした。(岡義武著『転換期の大正』)
当時、中国に対する「日本の野心」への警戒感は、アメリカをはじめ国際的に広がりつつありました。日本国内における排独世論の高まりをみて、日本の参戦は「三国干渉(1895年)への報復」との見方も現れます。
日本政府は8月15日、日本および中国海域からのドイツ艦艇の即時退去と、膠州湾租借地の日本への引き渡しを求める最後
「大正新時代の天佑」
大隈重信首相は同18日、演説の中で、政府の戦争目的について、「極東の平和を
ところで、元老たちは加藤外相に強い不満を抱いていました。加藤は、元老たちに、対英交渉の経過や外交文書を、機密保護を理由に報告せず、閲覧もさせませんでした。いわば元老を「排除」していたのです。日本の参戦決定も事前に諮りませんでした。ドイツを含め、各国との協調を最優先し、参戦に慎重だった山県有朋は、「加藤は一体、その眼中、ただ自分一人のみで、国家という観念がない」と憤りを