[今月のエッセイ]
無為に過ごした時間のために
ホテルというのは不思議な場所だ。
ホテルというより、宿と言った方がいいだろう。旅先で泊まる場所のことだ。これまでの旅の記憶をたどると、まずは宿のことを思い出す。
子どものころの家族旅行の行き先は伊豆や軽井沢だった。たいていは貸別荘や父の知り合いの会社の戸建ての保養所。なかにキッチンもあり、自分たちで料理をする。
そういう形になったのは、当時犬を飼っていたことも関係しているだろう。小型犬だが、家ではやたらと態度が大きく、そのくせ人見知りで繊細で、一度ペットホテルに預けたら体調不良でたいへんなことになってしまった。それで旅行のときはいっしょに連れて行くしかなかった。つまり車で行けてペット連れOKの宿。伊豆や軽井沢の戸建ての別荘がいちばん気軽だったのだ。
しかし、たぶん理由は犬だけではない。亡くなった父は列車の旅を好まなかった。というより、車の運転がなにより好きだった。そして、団体旅行は苦手だった。ガイドに導かれるのが性に合わない。母は母で、食べ物の好き嫌いが多い。肉や魚が全般的に苦手で、宿の食事より自分で料理する方が気楽だったみたいだ。加えて、子どものころのわたしは旅先の食事でよくお腹を壊した。病院のお世話になったこともある。集団旅行に向かない、面倒な人の集まりだった。
そういうわけで、子どものころはホテルや旅館に泊まったことがほとんどない。戸建ての別荘に何泊かして、一度か二度くらい有名なスポットに行き、あとは別荘の周辺でのんびり過ごす。従業員と顔を合わせることもなく、自宅から別の家に移動するみたいなものだった。
大学生のころだったか、観光スポットをめぐって宿を移っていくいわゆる周遊型の旅行というものがあることを知り、そういう旅行をしている家族が多いことがわかって驚いた記憶がある。
しかしもちろん、わたしも大人になると周遊型の旅行をするようになった。旅行代理店の組んだツアーは高いし、行きたい場所に自由に行けない。だから旅行ガイドで行きたい場所をリストアップし、列車時刻表を見ながら計画を練った。インターネットなどなかったから、宿の予約は電話である。ガイドの写真は小さくてあてにならず、どんな宿なのかは行ってみないとわからない。それも楽しかった。
しかし子どもができると、滞在型の旅行に戻った。批評家の夫は、まわりから日本語の会話が聞こえると仕事モードになってしまって気持ちが休まらないなどと、これまた面倒なことを言う。それで海外に行くことが増えた。幼い子どもを連れて移動するのはそれだけで大変である。正直、行き帰りの飛行機だけでへとへとだ。そして子どもは、夫が好きな博物館にもわたしが好きな遺跡にも興味がない(あたりまえである)。というわけで、海外のプールのあるリゾートホテルを選ぶようになった。
旅程の半分はホテルのプールに浸かり、途中何度か博物館や遺跡に行く。娘は小学校にあがる前からアンコールワットやらタージマハルやらシーギリヤやらに連れて行かれ、暑い暑いと文句を言いながら長い距離を歩いたり階段をのぼったりしながら遺跡を見物し、それなりに記憶に残っているものもあるみたいだ。
冬は毎年スキーに行き、いつも同じホテルに泊まる。いくつかの施設が連なった大規模ホテルだ。新しい施設ができたり、なかの店がリニューアルされたりすることもあるが、毎年行っているからたいていの場所は知っている。だが別に飽きない。むしろホテルのあちこちに思い出が積み重なっていて、あのときあそこでこんなことがあったよね、などと話すのが楽しい。
旅の記憶はいろいろあるが、宿での思い出はなにか特別なもののように思える。くりかえし行った場所はもちろんだが、一度だけだったとしても、いつも長めに滞在するので宿で過ごす時間がたくさんある。外に出るときはたいてい目的地があるが、宿にいる時間は無為に過ごす。そういう時間がなぜか印象に残っている。
旅は非日常だと言われるが、宿での時間は非日常のなかの日常だ。しばらく滞在するうちに、そこから出かけ、そこに帰ることに慣れていく。なにもすることのない時間には、自分の過去やこれからに思いを馳せたりもする。何度もくりかえし訪れた宿は、故郷のようなものに思えてくる。
宿に漂うそうした不思議な時間を描きたくて、『銀河ホテルの居候』というシリーズをはじめた。銀河ホテルという名前にしたのは、子どものころに家族でよく泊まっていた軽井沢の戸建ての保養所が、(わたしのおぼろげな記憶では)「銀河山荘」という名前だったから。たぶんその建物はもうないのだけれど、そこで父と母と妹と犬と無為に過ごした時間が、いまでもときどきほのかによみがえってくる。
ほしおさなえ
ほしお・さなえ●作家。1964年東京都生まれ。
1995年「影をめくるとき」が群像新人文学賞小説部門優秀作に。著作に「活版印刷三日月堂」「菓子屋横丁月光荘」「紙屋ふじさき記念館」「言葉の園のお菓子番」などの文庫シリーズ、『東京のぼる坂くだる坂』『まぼろしを織る』、児童書「ものだま探偵団」シリーズなど多数。