新潮社

試し読み
1〜4章 試し読み公開
『ブルーマリッジ』カツセマサヒコ

一. 雨宮守のプロポーズ

 声はかすれ、震え、裏返る寸前だった。指先は感覚をなくして、もう自分の体じゃないみたいだ。
 ――結婚しませんか。
 その一言を口にしただけ。まるで呪文を唱えたように、体の内側から、緊張? 興奮? 恐怖? 言い表しようもない爆発が生まれて、静かに溶けた。皮膚は熱を失い、五感を現実から遠ざける。底のない水中に飛び込むような、全ての音が遠く、心音だけがただ五月蝿うるさかった。
 家から十分ほど歩いた先の、小さなスペインバルにいる。奥に細長い店内はほぼ満席で、今日も空が青暗くなる前から活気ある声が飛び交っていた。
 その店の奥、店内を一望できるL字カウンターの角の席に、僕とみどりさんが座っている。一年半近く通い続けて、いつの間にか指定席のようになったこの場所で、いつものように食事をしている。いくつかのつまみと白ワインを頼み、食後にバニラアイスも注文する。何も特別なことはない、いつもどおりの日常を演じる。そして、甘さの控えめなバニラアイスが運ばれてくるその直前に、僕は翠さんにプロポーズを試みた。

 翠さんは目を丸くしたあと、下唇を軽く噛み、テーブルに視線を落とした。わずかな時間だったけれど、その仕草は、返事に迷っていることを的確に僕に伝えていた。
 数秒が、永遠の入口に接続してしまうように感じた。このまま答えは貰えないんじゃないかと不安がぎる頃、彼女は僕の目を見て言った。
「お願いします」
 そこで、壊れていた聴覚が戻った。
 体内に満ちていた緊張が毛穴という毛穴から飛び出していく。脱力してしまいそうな体を引き締めるため、僕は椅子に深く座り直した。
「いいの?」
 念のため、彼女に探りをいれてみる。さっきの沈黙は、何を意味していたのだろうか。
 翠さんの大きな瞳が、僕の目の奥を覗き返した。
「そっちこそ、いいの?」
「僕は、もちろん」
 深く、ゆっくりと頷いた。彼女を不安にさせないために。自分には自信があると伝えるために。
 翠さんは少し時間を置いて、「そっか」とだけ返した。その表情には、喜びよりも安堵の成分が多いように思えた。そしてきっと、僕もそれに近しい顔をしているに違いない。
 出逢って八年。付き合って六年。同棲を始めて二年。
 もう僕らのあいだに、新鮮な出来事はほとんど残されていない。今更結婚といっても、きっと今日までの日々の延長線のような暮らしが、生活が、日常が、これまでどおり続いていくだけだとわかっている。
 胸弾むような淡い恋を謳歌する時期は、とっくに過ぎてしまった。でも僕らは、打ち上げ花火のような刹那的な喜びよりも、少しずつ土に雨が染み込むような半永久的な安堵を選んだ。
 世間では、結婚なんて何もメリットがないという人もいるし、婚姻制度自体に懐疑的な声もある。それでも僕と翠さんは、結婚する権利を持っていて、自ら結婚を望んだ。それだけのことだ。
「本当は、もっとレストランとか、きちんとした場所を取るべきだったかもしれないし、指輪も僕が用意すべきかもしれないんだけど」
 あちこちに散らばってたらになっていた体の熱が、元の決められた場所に少しずつ収まっていく。声だけがまだ少し掠れていて、やけにのどが渇いていた。ワインを少し口に含ませたタイミングで、ちょうど店員さんがアイスを運んできた。
「指輪は、一緒に選んだ方がいいかなって思ったのと、結婚は、僕らにとって日常を続けることかなあと思うから。で、僕らの日常といえば、この店で。だから、それで」
 ふふ、と翠さんは小さく笑って、アイスを一口すくった。
「プロポーズの直後に反省や言い訳をするのは、まもるくんらしくていいね」
 婚約者となった彼女が、アイスクリームに口をつける。
 四月の日曜の夜が、ゆっくりと甘く溶けてゆく。

『ブルーマリッジ』カツセマサヒコ

次のページ 

『ブルーマリッジ』カツセマサヒコ

二. 土方剛と離婚届

 離婚したいと、妻が言った。
 娘の結婚式の翌々日のことだった。
 聞き間違いかと思ったが、そうじゃなかった。テーブルの上には離婚届が置かれていて、その片方に記された筆跡は間違いなく美貴子みきこのものだった。
「お願いします」
 テーブルの一点を見つめて、美貴子は言った。表情は能面みたいに動かず、その様子が不快を通り越して、不気味だった。
「なんで?」
 娘が嫁に行ったショックで、頭がおかしくなったか。
 そうとしか、考えられなかった。
 一昨日の結婚式を思い出してみる。本当に幸せだった。義理の息子となる鈴木のことは今でも好きになれないが、あの生意気だった紗良さらが、見違えたように綺麗になった。反抗期以降、ろくな会話もしてこなかったが、あの日は父親として、ただ誇らしかった。全員が笑っていて、幸福に満ちていたはずだ。
 なのに、どうしてこいつは、離婚だなんて口にするのだろうか。
「前から決めていたので」
 美貴子は受話器から聞こえる自動音声みたいな声で言った。
「いつから」
「紗良が、結婚すると言った日から」
「はあ?」
 俺まで変な声になった。
 紗良が結婚すると言ったのは、いつだ? たしか、一年半近く前だ。そんな昔から離婚を考えていたっていうのか。
「認めないよ、そんなの」
 指で軽く離婚届に触れると、美貴子の方に滑らせた。
「お前、今日までのうのうと暮らしておいて、娘がいなくなった途端にオサラバって。どういう神経してんの?」
 美貴子は、また黙った。自分の考えの甘さに、さっさと気付くべきだと思った。
 しかし、美貴子は離婚届を見つめたまま、わずかに震えた声で言った。
「のうのうと暮らしているように見えましたか?」
 またしても、耳を疑う。思わず顔を覗き込むが、美貴子の表情は、死んだように動かない。
「言わなきゃわかんない? こっちが朝から晩まで奴隷のように働いて、必死に家のローン返してるあいだ、お前はのんびりとお茶して暮らしてたわけだろ? 碌な苦労もしてこなかったお前が、なんで選ぶ権利を持てると思ってんだよ」
 美貴子は黙ったまま、俺をにらみつけた。
 反抗的な、生意気な目だった。
「働いてるこっちの身にもなってみろよ」
 できるだけ強く、離婚届をぎ払った。がさ、と音を立てて、紙切れはわずかに宙を舞い、カーペットに落ちた。その直後、美貴子が勢いよく頭を下げた。
「お願いします」
 その声はまた、震えている。
 伏せたままの美貴子の頭に、白い髪が何本も見えた。つむじのあたりの毛は薄く、頭髪が寂しかった。
 呆れて黙るほかなかった。美貴子の頭は、テーブルに額が着くまで、さらに下がった。
「お願いします」
 具体的な理由は何も言わず、ただお願い、お願いばかり。
「付き合ってらんねえよ」
 ジャケットと鞄を手に取ると、リビングを離れた。
 廊下を強く踏みつけながら、玄関へ向かった。
 美貴子が追いかけてくる気配はなかった。あいつの耳に聞こえるように、できるだけ強く玄関の扉を閉めた。重い扉は、閉じる直前で反発し、思うような音が出なかった。
 公道に出ると、喉にたんが絡んだ。唾を吐くと、隣の婆さんが汚いものでも見るように俺を見ていた。
 憂鬱だった。月曜の朝からこんな気分にさせて、何が楽しい?

次のページ 

三. 外食が駄目ならちょっといい肉を買って帰ろう

雨宮あまみやさん、少し、いいですか」
 遠くで声がした。それが自分に向けられたものだと気付くまで、ずいぶん時間がかかった。
 頭の中では、昨夜のプロポーズの光景が繰り返し再生されていた。
 結婚するんだ。僕がとうとう。日々に大きな変化はないとわかっていても、心はたしかに浮き足立っていて、同時に、不安もぎる。これからの生活や判断には「夫」としての責任が伴うだろう。それを、きちんと果たしていけるだろうか。
 腕を組もうとしたところで、もう一度、声が聞こえた。
「雨宮さん?」
 名前を呼ばれて我にかえると、キャビネットや資料棚に囲まれた、人事部フロアにいた。その奥にある部長席から、つじ部長が、小さく手を振っている。
「すみません!」
 咄嗟に立ち上がったせいで、デスクに置いていた、ペン立てが倒れた。それを直すより先に、辻部長の向かいにある古いパイプ椅子に向かう。
「珍しい。お疲れですか?」
「いえ、大丈夫です、すみません」
 呑気に婚約者のことを考えていました。なんて勿論言えず、小刻みに頭を下げる。辻部長はわずかに口角を上げて、パイプ椅子に座るように僕を促した。
「作成いただいた、この資料の件ですが」
 部長の手元には、今朝の朝礼を終えてすぐに手渡しておいた、労働時間に関する資料が置かれていた。相談したい箇所には事前にマーカーが引かれており、辻部長の指は、まさにその色が塗られた部分で止まっている。

 土方ひじかた つよし(第三営業本部 第二営業部 営業第四課 課長)
 三月度合計在社時間:三百十八時間

 営業にいる、土方課長の在社時間をまとめた数値だった。三月の営業日は二十日だったので、毎日十五時間以上オフィスにいたことになる。この数値は、ほかの管理職の平均在社時間の約二倍だ。
 三月だけやむをえず長く働いていたなら、解決も早かっただろう。でも、土方課長の在社時間が極端に長いのは、今に始まったことではなかった。
 課長の社歴を調べると、今年がちょうど勤続三十年にあたる。規模も中堅といった食品専門商社の中で、土方課長は卸業者や小売店を取引先とする現部署の拡大に大きな役割を果たしてきたという。大きな成果を上げるたび、社内での発言力は強くなり、その力によって多少のトラブルなら黙認させる空気を作り出していったようだった。それをいいことに、長時間労働が問題視されるようになってからも、古くからのスタンスを変えようとはしない。
「土方さんは、在社時間について、何か言ってましたか?」
 辻部長はフレームのない眼鏡を外すと、目の筋肉をほぐすように片手でまぶたを押さえた。
「ちょうど先週、産業医面談を実施したところで。ただ、本人にはほとんど改善意思が見られないというか」
 面談中の土方課長を思い出す。窓のない応接室に響いた、低く、刺すような声。筋肉質な体つきは営業フロアの中でもとくに目立って大きいのに、その体をさらに大きく見せるように、課長は椅子にふんぞり返りながら、僕を見下すように言った。
 ――こっちは何年も右肩下がりになってる数字支えるために、毎日必死こいて働いてんだよ。それをお前、有無を言わさず早く帰れ、でも売上は落とすなってさ。なんっにも具体策は挙げないくせに、文句だけは言うだろ。人事部長が変わってから、そんなんばっかりじゃねえか。お前はそれでいいのかよ? なあ?
 両脇から、あばらを押し潰してくるような感覚が走る。別に暴力を振るわれたり、暴言を吐かれたりしたわけでもないのに、その声量と威圧感に負け、体が萎縮してしまっていた。上手いように発言もできなくなり、先週はそのまま、面談の時間が終わってしまったのだった。
 面談の様子を部分的に伝えると、辻部長はデスクに両肘をつき、左右のこめかみに親指を当てた。
「この令和の時代に、よくもまあそんなスタンスで」
 人事部のフロアは空調の効きが悪く、蒸し暑い。それでも部長は涼しげな顔で、灰色のジャケットを脱がずにいる。
「これまでの名残り、ってやつでしょうか?」
 僕が責められたように感じて、思わず軽く頭を下げてしまう。
 これまで、というのは、部長がこの会社に来るより前のことに、違いなかった。創業者一族が経営陣をほぼ独占している非上場企業。業績も従業員数もとくに目立ったものはないはずだったが、三年前に常務取締役にあたる社長の次男が暴力沙汰で新聞に載ると、この会社は世間から「叩いてよいもの」とみなされ、ずさんな経営体制とハラスメントが横行するブラック企業として、幾つかのニュース記事が出るほどとなった。
 実態は、そこまでひどい会社ではない。ただ、ゴシップとして取り上げられたうちの幾つかは事実であり、それらはやはり、親族経営と体育会系気質に振り切った企業風土が原因であることが明らかだった。
 このことを受けて、会社の体制は大きく変わった。今まで常務が兼任していた人事部長のポストは明け渡され、新たに辻部長が、他社からやってきた。
「難しいですよね。変わる必要がないと思っている人間に、変化を促すのは」
 部長が転職してきて、二年。口癖のように聞かされ続けてきた台詞だった。新卒でこの会社に入った僕は、ハラスメントはどの会社にも少なからず存在するものだろうと思い込んでいた。とくに居心地が悪いようにも感じていなかったので、辻部長の勧善懲悪を貫き通す姿勢を見たときには、それなりの衝撃があったのだった。
 僕は手元に用意していたもうひとつの資料を手渡した。今度は管理職ではなく、その部下の労働時間をまとめた表だ。
「四課を見ると、土方課長だけじゃなく、課員全員、労働時間が長いんです」
 マーカーを引いた部分に、部長が顔を近づける。じっと睨んでからゆっくり体を起こすと、眉間にしわを寄せた。
「四課は、前年よりも売上が落ちてきていて、今が踏ん張りどき、と営業本部長も仰っていましたけどね。でも、さすがに三カ月の間ずっとこの数字っていうことは、労働時間についてはマネジメントする気がそもそもない、ということになりますよね」
 部長は長いため息をつくと、オールバックにまとめている髪を上からそっと押さえるようにでた。
 頭の中で再び、土方課長の声が響く。
 ――売上も立てられないくせに、偉そうに文句だけ言ってくるどこぞの部署さまのせいで、こっちがこんなに苦しめられてるわけだよ。そのことをもう少し自覚して喋ってくんねえかな。
「土方課長のことで何かあったら、教えてください。四課の課員の方から相談があった場合も、必ず共有をお願いします」
 辻部長は引き出しからクロスを取り出して、眼鏡を丁寧に拭き始めた。それが話の終わりの合図と信じて、僕は席を立った。

 十九時になる前に、慌ててオフィスを出た。混雑している地下鉄は重たそうに各駅に止まりながら、僕の自宅の最寄駅へと向かっている。
 人事部の残業時間は元々そこまで長くなかったけれど、辻部長がこの会社に来てからは、さらに短くなった。定時上がりを大前提として、一時間以上の残業には具体的な理由が求められた。不要な業務は片端から姿を消して、会議の数も大幅に減った。厳格かつ抜本的なやり方に反発する先輩もいたけれど、成果は半年もしないうちに、数値としてしっかり表れた。
 今では人事部のほぼ全員が十九時前に退社している。暇なのではないか、と他部署から揶揄されるほどになったが、凝縮された忙しさは、ダラダラ働くよりもよっぽど負荷が高く、緊張感がある。
 二十四時間働くことが善とされていた時代は、家に帰ることなんてほとんどなくて、暮らしはほったらかしだったんだろうか。労働だけが価値を持ち、生活することは無意味で無価値とされていたのだろうか。
 生活。
 その言葉に触れるたび、翠さんの顔が浮かぶ。
 翠さんは三つ上だから、今年で二十九になる。九州に住む地元の友達はみんな結婚していて、SNSのアイコンは子供の写真ばかりになってしまったのだと、前に話していた。
「もう誰が誰だかわかんないから、適当にいいね! してんだよね」
 笑いながらビールジョッキを持ち上げた姿には、たくましさすら覚えていた。そんな翠さんがプロポーズを受け入れてくれたのは、どうしてだろう? 
 女の人は、結婚することで、男からは想像もつかないようなプレッシャーやハラスメントから逃れられたりするのだろうか。心から結婚を望んでいなくとも、その方が生きやすくなるからという理由で、婚姻関係を結ぶ人もいるのだろうか。
 もしもそうだとして、翠さんはそんな生き方を選ぶだろうか?
 地上出口へと向かう細い階段を上ると、月がちょうど雲から抜け出たところに出会でくわした。灰色の雲が口惜しそうに流れていき、半分の月が、ポツリと姿を現していた。
 その光景を眺めていたら、すぐ後ろから声がした。振り向くと、階段を上りきったばかりの翠さんがそこにいた。
「翠さん、今日は早いね?」
「うん、なーんか集中できなくって」
 帰ったらまた続きやらなきゃと、翠さんは疲労を逃がすように首を回した。どこでも働けるってことは、どこまでも仕事が追いかけてくるってことだよと、前に話していたことを思い出した。
「夕飯、どこかで食べてく? そしたら帰ってすぐに仕事できるだろうし」
「わ、本当? それ助かるかも」
 蒸し暑いし、お蕎麦とかがいいな。それか、また昨日の店? 守くん、プロポーズやり直す?
 愉快な遊びを思いついた子供みたいに、翠さんが笑った。
 その笑顔を見て、こんな日々が続くならいいな、と思った。だからプロポーズしたのだと、今更自分の気持ちに気付いて少し恥ずかしくなったりもした。
 二人で駅近くの蕎麦屋に向かった。片側三車線の大きな幹線道路は順調に流れていて、大型トラックが僕らの会話をたびたび遮った(話している内容が「今日の日替わり天ぷらの具材は何か?」だったからそれでも問題はなかった)。
 しかし、少し歩いて幹線道路沿いの蕎麦屋に着いてみれば、こういう日に限って定休日でシャッターが降りていて、めげずに昨日行ったスペインバルまで向かえば、そちらも運悪く臨時休業の札を出していた。
「不運ってほんと、重なるようにできてるね」
 苦いものでも食べたような顔をして翠さんが言った。こんな日はきっとどこに行ってもダメだろうと、二人で潔く諦める。弁当か惣菜でも買って帰ろうかと、先ほどより少し重い足取りでスーパーに立ち寄ると、会社帰りと思われるスーツ姿の人がたくさん目に入った。
「あ、これにしよ?」
 店の奥にある精肉コーナーで、翠さんが立ち止まる。割引シールの貼られた牛肉を手に取って、それを僕に見せた。真っ赤な肉は全長二十センチはありそうで、どこかの国の地図のようにも見えた。
「翠さん、さっきお蕎麦食べたいって言ってなかった?」
「でもこれ見たら、お肉食べたくなっちゃった」
 会計用のかごに入れられたそれを見ながら想像したのは、美味しい肉を食べる姿より、後片付けに苦戦する自分の姿だった。サーロインだから脂分も多いし、コンロ周りはかなりベタつく。最近はただでさえフライパンの汚れが落ちにくくなってきているのに、翠さんはそのことを気にも留めない。
「もしかして、洗い物のこととか考えてる?」
「え?」
 翠さんが、僕の表情を読もうとしている。そのことに気付いて、途端に居心地が悪くなる。この人はたまにそうやって、僕の顔色をうかがうことがある。
「洗うの、手伝うからいいじゃん」
「いや、いいよ。翠さん、仕事しなきゃなんでしょ?」
「そうだけど、お皿洗うくらいやるよ、別に」
「いいって。持ち帰らなきゃいけないほどの仕事なんだから、そっちに集中しなよ」
「いや、いいって、ほんと」
 翠さんの声が、かすかに尖った。僕は翠さんが棚に戻そうとした牛肉を、すぐに買い物かごに入れなおす。
「ごめん。大丈夫だから。ここは頑張って、仕事する人が食べたいものを食べるべきだよ」
 レジへ向かう途中、生鮮食品エリアの空気がいつもより随分と冷たく感じた。店内の明かりも弱い気がして、たまたま節電している日なのか、いつもこうなのか、思い出すことができない。

『ブルーマリッジ』カツセマサヒコ

次のページ 

『ブルーマリッジ』カツセマサヒコ

四. 喫煙所にて

「で、どうすんの?」
 俺は質問をしただけだ。キツく詰めてるわけでもないのに、部下は頭を下げたまま、返事をしない。
 ――受注が確定したと思っていた得意先から、週末の間にキャンセルの連絡が入っていました。月曜、火曜と対応したけれど間に合わず、今朝、失注となりました。すみませんでした。
 課長会が終わってデスクに戻るなり、そう報告してきた小木おぎもとの頬から、汗が落ちていくのが見えた。
「このままだと目標未達だけど、来週までにどうやって取り戻すわけ?」
「はい」
「はいじゃなくて」
「すみません」
 鼻水をすする音がした。顔を上げた小木元の顔は、歪んでいる。
「俺、言ったよな。四月は大型連休もあるから早めに伝票上げろって。先月の挽回するために、全員で頑張るぞって」
「すみません」
「すみませんじゃなくてさ」
 ため息が出る。
「お前さ、言われたことしかできないんじゃ、バイトだっていいんだよ。バイトなの? お前は。違うだろ? だったらすみませんじゃなくて、これからどうするか自分で考えて、俺にプランを教えてくださいって言ってんの」
 報告書が挟んであるバインダーを何度か叩いて、突っ返す。小木元はそれを受け取れず、音を立てて地面に落とした。慌てて拾おうとする首元に、風呂上がりの水滴のように大量の汗が見えた。
顛末書てんまつしょよろしく」
「はい」
「絶対に今日中だぞ」
 ジャケットを脱ぐと、内ポケットからライターを取り出す。残り少なくなった煙草を持って席を立った。去り際にデスクを振り向くと、何もなかったように席に着く小木元の姿が見えた。

『ブルーマリッジ』カツセマサヒコ

「今日も、コテンパンに言ってましたね」
 エレベーターを降りて喫煙所に入ろうとしたところで、隣の課の三条さんじょうに声を掛けられた。三条は相変わらず木の枝みたいに体が細く、そのうえ洒落づいて細身のスーツなんて着るから、風でも吹けばすぐに折れてしまいそうだった。
 三条の手には、新型らしい電子煙草が握られていた。
「そんなに強く言ったつもりはねえけど。聞こえてた?」
「隣であんな怒鳴ってたら、聞こえますって」
「怒鳴ってないって」
 三条は鳥の巣みたいにくるくると膨らんだ髪を、電子煙草の先で軽く掻きながら笑った。
「小木元くん、またやっちゃったんですね」
「ああ、この大事な時期に、凡ミスで失注だよ」
「僕も、やったことありましたけどね」
「嘘ぉ? 覚えてねえわ」
 三条は確か、八個下だったか。後輩として入ってきたときは積極性の欠片もなくて、本当に頼りなかった。それが今では立派に隣の五課で課長をやっている。昇格スピードは同期トップだったと、風の噂で聞いた。
「彼、ご飯を食べるのが好きだから食品業界に入ったって言ってましたね」
「小木元? そんなこと言ってた?」
「言ってましたよ、去年の新人配属のとき」
「だからあいつ、デブなのか。まあ、好きって気持ちだけでやっていけたら苦労しねえな」
 三条は口元をへの字にして、軽く頷いた。
「最近の子、夢と現実がズレてるとわかった途端、あっさり辞めちゃったりしますしね。土方さんのところの長谷はせがわさんくらい、優秀で、ガッツがあったらいいですけどね」
 部下の長谷川ひとの顔が浮かぶ。長谷川は、女性営業に求められる素質を全て持っているような女だ。度胸と愛嬌と従順さを兼ね備えている若手の女子なんて、うちの営業にはほとんどいない。
「あいつはなんていうか、特別よ」
 何度かライターを擦って、ようやく火が点いた。煙を目一杯吸い込むと、低い天井に向けて吐き出す。換気扇が壊れているのか、五畳程度しかない喫煙所はすぐに煙たくなった。
「期待かけすぎて、若手の未来、潰さないようにしてくださいね」
 三条が耳打ちするように言った。女が吸っていそうな、甘い煙草の匂いがした。
「得意先が求めたら、こっちは応えるしかないだろ」
 ずっと、そうやって働いてきたのだ。
 うちみたいな中堅の食品専門商社でも、最近はようやく、メーカーのEC支援や小売店のプライベートブランド開発支援なんかで稼ぐようになってきた。だが、俺や三条なんかがいる第三営業本部は今も昔と変わらず、小規模の卸業者や小売店を相手に何度も足を運び、無名の商品群をなんとか仕入れてもらって売上を立てている。海外を飛び回ることが花形とされる商社において、堅実な仕事を積み重ねて、今がある。
 だから、どんな小さな得意先であっても相手の期待に背いてはならない。そう部下に教える。
 十五年ほど前になるが、小さな店との関係をコツコツと積み上げた結果、関東圏にエリアを拡げる業務スーパーとの取引のきっかけを掴んだことがあった。会社全体で見れば些細な数字だが、当時のうちの部では指折りのデカさを誇るチェーン店だった。その仕事がきっかけで俺は課長に昇格し、今がある。
 たとえ無茶な依頼だったとしても、応え続けること。そうすれば、いつかそこから信頼関係が生まれてくることを、俺はこの身をもって学んできたし、それを部下たちにも伝えたい。
「この前なんか、四課全員で倉庫に籠って商品の仕分けしてましたよね」
「あれは流石に、緊急事態だからだよ。台風が来て流通が止まったっていうなら、自分たちで仕分けるしかないだろ。そういう泥臭い仕事の積み重ねが、あとから効いてくるんだよ」
 新たな卸業者や小売店への新規開拓もしているが、相手がどこにしたって、こちらがすべきことは誠意を尽くすことのみ、だ。
「ほんと、体やメンタル、大事にしてくださいね」
「人事部みたいなこと言うなって」
 三条は、電子煙草をジャケットにしまった。
 俺は一本で止めるつもりだったが、気付けば二本目の煙草にも、火をつけていた。
 このまえ呼び出された、産業医面談を思い出す。人事部の若いやつが、偉そうに文句を垂れていた。
 煙を吐き出す。空気に溶けようとするその先の窓の向こうに、見覚えのある姿がいくつかある。
「あれ。噂をすれば、人事部御一行ですね」
「ああ、ほんとだ」
 目を凝らす。人事部長の辻をはじめ、見覚えのある顔がいくつも喫煙所の前を通り過ぎていく。
「人事の雨宮さん、イマドキな感じで、優秀だって話題ですね」
「雨宮?」
「あの、最後尾のおとなしそうな子ですよ」
 三条が、ポケットにしまったはずの電子煙草の先で、最後尾にいる貧相な若い男を指した。
「あいつ、雨宮っていうのか。なんか面談させられたぞ? 労働時間がどうとか」
「え、そうなんですか?」
 目付けられてるんじゃないですかと笑われて、面談中の雨宮の様子を思い出した。こっちの発言にはいちいちビクついてばかりだし、あいつからの質問は、ほとんどが形式張ったものばかりだった。
「彼、新卒入社から初配属で人事部になったらしいですけど、それってうちの会社ではかなり久しぶりのことらしいですよ。だからよっぽど優秀なんだろうって」
「あんなやつが?」
「まあ、言われてるだけで実際はわからないですけど。でも、出世頭ではあるんじゃないですかね」
 入社後、いきなり人事部。
 確かに、人事部を一度でも経験すると、出世コースに乗るらしいと噂で聞いたことはあった。
「現場のことをなんも知らずに、偉くなるってか」
「まあ、たしかに」
「あいつ、企業としての責任がーとか、ワークライフバランスがーとか、ふわふわと現実味のない綺麗事ばっかり口にしてたけどな」
 思い出して、舌打ちが出た。三条は雨宮の後ろ姿を目で追っている。
「でも、例のホワイトボックスも、雨宮さん発案らしいですよ」
「ホワイトボックス?」
「え、一斉メール、流れてたじゃないですか」
「どれ?」
 三条は苦笑いしながら社用携帯を取り出して、メール画面を俺に見せた。
 件名には、〈匿名ホットライン「ホワイトボックス」設置に関するアンケート〉と書かれている。
「社内でのハラスメントを失くすための匿名告発フォーム、ですって。多分、実施されるんじゃないですかね」
「あー、これか。どうせ冤罪えんざい生むだけだろ?」
「いや、正直、やってみないとわからないでしょうね。まあ、ともかくこれも、雨宮さん発案らしいんですよ。彼はいろいろ自発的に企画もするし、僕も優秀だと思いますよ」
「優秀ねえ」
 雨宮を最後尾に、人事部の全員が会議室に入っていく。頼りない背中をしているやつらばっかりだ。
「うちみたいなところにいるんじゃ、たかが知れてるってもんだろ」
「まだ四年目ですから。二十六とかですよ、彼」
「二十六?」
 娘の、紗良の顔が浮かんだ。あいつと同い年か。
 紗良は、結婚式の夜には連絡をくれたが、それ以後、まったく返事をよこさなくなった。
 美貴子は離婚届を俺に突きつけた月曜から、丸二日帰ってきていない。
 うちの女たちは、何を考えているのだろうか?
 美貴子に逃げ場所なんかないだろうし、すぐに帰ってくるかと思ったが、今朝起きてもやはり、その姿はなかった。紗良がかくまっているのかもしれないと思い、何度も電話をかけたが、一度も出ないばかりか、折り返しもしてこなかった。
 飯を作る人間も、掃除や洗濯をする人間も、家からいなくなっている。そのことがただただストレスで、いらって仕方なかった。
「灰、危ないです」
 三条に言われて、煙草が短くなっていることに気が付いた。
 灰皿に押し付けて、もみ消す。褐色になった水が、灰皿の奥でユラユラ揺れていた。

続きは本書でお楽しみください。

『ブルーマリッジ』カツセマサヒコ