▼"The Mutant Project" Eben Kirksey

The Mutant Project: Inside the Global Race to Genetically Modify Humans

 An anthropologist visits the frontiers of genetics, medicine, and technology to ask: Whose values are guiding gene editing experiments? And what does this new era of scientific inquiry mean for the future of the human species――.

 伝子編集技術の発展とその倫理的・社会的影響について鋭く問いかける本書は,遺伝子科学に携わる科学者たちと,それに対する抵抗を示す活動家たちを追うスリリングな冒険として描かれ,科学技術と社会正義の接点を探求する.核心的な問題は,遺伝子技術の恩恵を享受する者と,その技術の開発や利用を決定する者が誰であるか,という不平等の問題である.新しい遺伝子技術の進展は,医療や健康の向上を目指しているが,その決定権を持つ者たちはしばしば権力や利益を優先させていると指摘される.これにより,科学は一部の利益集団に有利に働く可能性があり,その倫理的問題は無視されがちである.この問題を無視したまま技術開発が進めば,社会全体がより分断され,倫理的に不安定な未来へと向かう可能性がある.CRISPRのような遺伝子編集技術がもたらす倫理的問題は,すべての人々が平等にその利益を享受できるかどうかに深く関わっている.科学技術が進化する中で,それを誰がコントロールし,誰が利益を享受するのかという不平等は,古くから存在する問題であるが,カークシーはこの問題を現代の技術的背景の中で改めて問い直している.特に,遺伝子組み換えの技術が優生学の脅威を再燃させる可能性があることに注意を促している.

 本書は,多くの批評家から絶賛されているが,その理由は単に遺伝子編集技術の現状を描くだけではなく,その技術が社会にどのような影響を及ぼすかを掘り下げている点にある.科学的技術とその倫理的・社会的影響を並列に扱うことで,読者は単なる科学知識以上の視点を得ることができる.プリンストン大学のアグスティン・フエンテス(Agustin Fuentes)は「科学,技術,人々,夢,そして人間性の混乱の真っ只中に私たちを導く冒険」と評している.つまり,遺伝子編集は単なる技術ではなく,人間のあり方や未来を再定義する力を持つものであるという視点が強調されているのである.著者の筆致は,科学的事実とその背後にある倫理的ディレンマを巧みに描き出し,読者に深い考察を促す.例えば,中国での遺伝子改変実験は,倫理的に曖昧な領域に踏み込んでおり,これが人間の権利や社会の公正さにどのような影響を与えるのかを鋭く問うている.また,技術が人類の未来に与える可能性に対して,不安と希望が交錯する描写が特徴的である.

 遺伝子操作により人為的に作出された胚から生まれた人類は,2018年に誕生した双子のルルとナナ,2019年に誕生したエイミーの3名が確認されている.いずれも女性であり,C-Cケモカインレセプター5(CCR5)への変異が施されているため,HIVへの感染耐性を持つ可能性がある.「ミュータント」という名称は,元々は自然発生的または人為的に変異した生物を指す一般名詞である.しかし,1950年代にSF作家アイザック・アシモフIsaac Asimov)が超常能力を持つ登場人物にこの名称を付けたことで,主に米国のSF小説やコミックにおいて「従来の人類とは異なるゲノムを持ち,特異な能力を持つ人類」といった意味が加わるようになった.アシモフが描いた「ロボット三原則」や「ファウンデーションシリーズ」のような作品は,未来技術に対する予見や倫理的問題に深く踏み込んでおり,その影響は現在の技術者や科学者にも及んでいる.2018年に最初のミュータントが誕生した際には,「ゲノム編集ベビー」や「デザイナーベビー」などの呼称も使われたが,本書において彼らをミュータントと呼んだことで,より古くから馴染みのある呼称が選好されるようになった.

 興味深いことに,この本は,遺伝子編集がもたらす社会的影響についての先見性を持っており,触発した議論は国際的にも広がった.表紙に描かれているのは,遺伝子編集を意味するハサミであり,これは未来の科学技術を視覚的に表現する試みである.胚の作出方法については,世代交代に長い年月を要する人類に対して,マウスなどで用いられるキメラ個体を介する多能性幹細胞胚盤胞注入法は現実的ではない.そのため,TALENやCRISPR/Cas9などのゲノム編集技術を用いて受精卵に変異を施す方法が検討されているが,これらの技術は多くの国で禁止されている.ちなみに,CRISPR/Cas9技術が発展する以前には,同様の遺伝子操作が1980年代にヒト細胞で行われたことがあり,その際には倫理的な問題が指摘され,現在の技術の発展に繋がる重要な前段階であった.この技術の発展により,遺伝子編集は単なる科学実験から医療や農業,さらには人類の進化に関する議論まで,多くの領域に影響を及ぼしている.現在,生存するミュータントは中国南方科技大学の賀建奎らによってCRISPR/Cas9を用いて変異が施されたものである.賀建奎はこの研究を発表する際,事前に公衆の反応を予測しておらず,その発表後に大きな論争が巻き起こった.賀の研究は倫理的に問題があるとされ,多くの科学者や倫理学者から非難された.賀が発表の際に用いたプレゼンテーションには,遺伝子編集技術の未来を描いたグラフィックスが含まれており,これが一部の批評家から「SF的な演出」として批判されたこともある.

 生殖に関しては,現時点でミュータントはいずれも6歳未満であり,生殖能力がないと考えられている.彼らの体内では変異が施された細胞と通常の細胞がモザイク状になっているため,生殖細胞系列に変異遺伝子が存在しない可能性も否定できないが,彼らの子孫もミュータントとなる可能性がある.興味深いことに,遺伝子操作が将来的にどのように人類の進化に影響を与えるかについての議論は,すでに数十年にわたって続けられている.これには,遺伝子操作による進化の可能性についての学説やフィクション作品も含まれる.たとえば,アーサー・C・クラーク(Arthur Charles Clarke)『2001年宇宙の旅』では,人類が進化の過程で「星間人」となるシナリオが描かれており,遺伝子操作や進化が描写されている.現存するミュータントの概要については,ルルは中国人の両親から生まれ,CCR5変異を付与されている.HIV耐性を持つ可能性があるものの,CCR5の構造が一般の現生人類に近く,耐性を持たない可能性も高いとされる.ルルとナナの誕生は,まるでサイエンスフィクションのような現実となり,その背後には科学技術の急速な進展と倫理的な課題が横たわっている.ルルとナナの誕生に関する報道は,メディアによって大々的に取り上げられ,科学技術と倫理に関する論争が国際的に広がった.ナナはルルの双子の姉妹で,CCR5の変異がより強いとされるため,HIV耐性の可能性が高い.エイミーもCRISPR/Cas9による編集を受けたミュータントであるが,詳細な塩基配列は公開されていない.

 エイミーの誕生に関する報道は,倫理的な問題と科学的な興奮の交錯する複雑な状況を反映しており,メディアによる取材や報道が多くの論争を呼び起こした.賀によると,2024年6月時点で彼女の親は離婚しており,シングルマザーとして育てられているため,賀建奎が経済的に支援しているとのことである.賀の支援は,彼の研究に対する外部からの批判や圧力が高まる中で,彼自身が倫理的な責任を果たそうとしている一環とも見られている.法的な位置づけについては,ミュータントに関する正式な名称や条約は存在しない.現在,ミュータントは中華人民共和国政府の管理下にあり,彼らの権利や基本的人権については公開されていない.また,ミュータントの作出自体に関する法的整備が整っていない国が多く,倫理的な議論も行われている.英国のNuffield財団は,ミュータントが完全な人権を享受する権利を持つべきであると主張している.これに関連する国際的な議論は,今後の科学技術の進展と倫理的な対応に大きな影響を与えるであろう.

 今後付与される可能性のある強化能力として,最初に生まれた3名はCCR5変異によりHIV感染耐性を持ち,さらに脳機能の強化が言われている.また,真鯛などのゲノム編集ですでに実用化されている筋力増強や,特定の疾患の予防が可能な能力の追加も考えられる.特に,血友病のような単一遺伝子疾患についてはミュータントにすることで回避できる可能性があり,これは出生後のゲノム編集とは異なり,孫世代に疾患を受け継がせないという大きなメリットがあるため,今後の議論が期待されている.特に,発光能力や超人的な筋力などの遺伝子を持つミュータントが生まれる可能性があり,これは未来の科学技術と倫理の交差点を象徴するような話題となるであろう.近年では,SF映画のようなフィクションが現実の科学技術に影響を与えるとされており,映画や文学における「ミュータント」の描写が,未来の科学技術に対する社会の期待や不安を反映している.

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Title: The Mutant Project - Inside the Global Race to Genetically Modify Humans

Author: Eben Kirksey

ISBN: 1250265355

© 2020 St Martins Pr

■「メタリカ:真実の瞬間」ジョー・バーリンジャー,ブルース・シノフスキー

メタリカ 真実の瞬間 スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

 81年のバンド結成以来,全世界でアルバム売上9000万枚以上を誇るメタリカが,最新アルバムを完成させるまでを追ったロックドキュメンタリー.メンバー間の確執に苦悩しながらも再出発を果たす彼らの姿を追う….

 ラッシュ・メタル四天王の一角とも,“メタル・オブ・ゴッド”とも称される怪物バンドのアルバム作成風景をフィルムに収めようとするドキュメンタリーだが,撮影中,スタッフは何度も「(カメラを)止めなくていいのか」と確認を取るシーンがマスターテープに収録されている.アルバムの陳腐なメイキングに留まるわけもなく,火のような個性とエナジーを発するメンバーの衝突を,赤裸々にカメラは記録している.ストイックなまでに音楽にかける情熱は,メンバー間の怒号と憎悪,エゴイズムにかき消されているように見えながら,最後にはそこに回帰していく.映像作家ジョー・バーリンジャー(Joe Berlinger)とブルース・シノフスキー(Bruce Sinofsky)は,へヴィメタ界のカリスマ,メタリカに焦点をあてたドキュメンタリーを製作しようと考えた.以前のドキュメンタリー・フィルムに快く楽曲を提供してくれたメタリカに,興味を抱き続けてきたからだ.

 撮影が始まった2001年,メタリカは結成20年の節目に,ニューアルバムの完成に向け意見を戦わせていた.世界中が注目するアルバムの完成度という重圧,メンバー間の信頼感の欠如,ベーシストのジェイソン・ニューステッド(Jason Newsted)の脱退,さらには目指す音楽性の相違から,ラーズ・ウルリッヒ(Lars Ulrich)と激しく対立してきたジェイムズ・ヘットフィールド(James Hetfield)が,アルコール依存症で長期休養.内紛の絶えないメタリカは,空中分解寸前だった.強面の彼らには,ひたすらに音楽の極みを手にしようとする少年のような純粋さとストイックさ,自己の理想のためには,他のメンバーの思惑など度外視する横暴さが,めまぐるしく表出しては衝突し合う.よくこんな連中が20年も協同作業を継続できたものだと唖然とするほかないが,彼らの精神的支柱となっている専属のセラピストの存在が胡散臭くも面白い.

 激しい言葉で怒鳴り合い,ステージ上では反倫理的なメッセージやパフォーマンスを見せるヘットフィールドが,「教えてくれ,俺たちに必要なものは何なんだ?」と,精神分析派と思しきセラピストに教えを乞うのである.機嫌が悪いと怒鳴り散らしてレコーディングを中断,かと思えば,愚直なまでに単調なボイストレーニングは欠かさない.そんな猛者の集合が,ハードコア・パンクなど他ジャンルの音楽にまで影響力を誇る“イズム”の源泉の場である――2000年4月,メタリカは音楽ファイルの交換システムを取るナップスターおよび大学3校を相手取り,著作権侵害,デジタル音楽ソフトの違法使用及び不正組織防止条例の違反で訴えを起こした.これを受け,ナップスターは,メタリカの楽曲を交換したすべてのユーザ(約31万7,000人)をメンバーから削除した.この時削除されたユーザーは,ナップスターに再度登録することが不可能であったため,ユーザーたちは激怒した.バンド内の火種のみならず,社会的にもメタリカは批判を向けられ,音楽活動そのものが末期症状を呈していると非難されるありさまだった.

 メタリカの「気風」に馴染めず,奇行から過去にメタリカから解雇を言い渡されたメガデスのデイヴ・ムステイン(Dave Scott Mustaine)が,「メタリカでの経験は無駄ではなかった」と懐古するシーンが出てくる.ムステインが初期メタリカの音楽に与えた影響は大きく,感慨深い.しかし,ドラッグに毒され傍若無人であったムステインと派手に殴り合い,追放したジェームスは,彼のコメントをどう受け止めるだろうか.映画は,抜けたベーシストの穴を埋めるオーディションで, ツー・フィンガー奏法とディストーションの使い手ロバート・トゥルヒーオ(Robert Trujillo)を選び迎え入れ,2003年にアルバム「セイント・アンガー」を完成させた新生メタリカを披露する.骨のあるメタリカサウンドは,世界の期待に違わず,ファンを熱狂させた.刑務所慰問のステージ上で,ヘットフィールドが「音楽に出会わなければ,自分もここに来るかとっくに死んでいた」と,不器用に入所者へメッセージを発した場面が,ひときわ印象深い.

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原題: METALLICA - SOME KIND OF MONSTER

監督: ジョー・バーリンジャー,ブルース・シノフスキー

141分/アメリカ/2004年

© 2004 We're Only In It For The Music.

■「華氏451」フランソワ・トリュフォー

華氏451 [DVD]

 活字の存在しない未来の管理社会を描いたレイ・ブラッドベリの小説を映画化.主人公モンターグは禁止されている書物の捜索と焼却にあたる有能な消防士だったが,クラリスという女性と知り合った事から本について興味を持ち始める.やがて読書の虜となった彼の前には妻の裏切りと同僚の追跡が待っていた….

 ブリオフィル(愛書家)であったフランソワ・トリュフォー(François Roland Truffaut)は,仰々しいSF映画の様式を「生理的嫌悪感を覚える」というほど徹底的に批判した.本作は,分類上は近未来型SF映画になるだろう.しかし,トリュフォーの意図は,文学と人間の精神性への賛歌であり,「焚書」の常態化した世界でリリカルな諷刺を描いて見せた.情報統制の布かれた社会では,リテラシーは危険思想と道義である.壁に架かった巨大なテレビジョン,管理体制化で多発する密告行為.1960年代の近未来的発想は,建築物や公共交通(モノレール)の造型が先進的ではなく,むしろ乏しい.無機的な生活様式を通じて,寒々しい未来の雰囲気は生成されている.

 反体制市民が隠し持つ蔵書を焼き払う焚書官は,アナクロな消防士スタイル,市民には火力の使用も制限され,住宅からの火災はゼロ.粛々と本の焼却任務を遂行していくモンターグが,書物に触れ,危険と知りつつ精神を深耕していき,人間性を獲得していく.人物の助けを借りず,書物と対話する中でモンターグの人間性は刻々と変化していく.焚書官により焼き払われる本は,チャールズ・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens)『デイヴィッド・コパフィールド』,ウラジーミル・ナボコフ(Владимир Владимирович Набоков )『ロリータ』,レーモン・クノー(Raymond Queneau)『地下鉄のザジ』,サルバドール・ダリ(Salvador Dalí)『画集』等々.公開禁止処分となったジャック・リヴェット(Jacques Rivette),ジャン=リュック・ゴダールJean-Luc Godard)らの映画スチール写真も燃やされる.

 爆ぜる炎上音に合わせ,文学や哲学書,芸術書がゆっくりと炭化していく構図には「滅びの美」が認められ,同時に,怒りとも哀しみともつかぬ憤りを感じさせる.おそらく人間には,とこしえに真善美を継承していきたいという普遍の渇望があるのだろう.それが破壊された時,感じる痛みを疑似体験させる情景なのである.「華氏451」とは,書物が着火し燃え始める温度.原作者レイ・ブラッドベリ(Raymond Bradbury)は,20世紀初期に登場した映画が人々の心を掴み,続いてラジオやテレビが人々を魅了した,と小説に書いた.そして,その後の大衆の心をつかむことは,必然的に単純化につながるものとした.トリュフォーは,このような原作の一節を見逃していない.公僕たる焚書官モンターグは,書物の真価に気づき,反逆者として逃亡の身に墜ちる.

 レジスタンス組織に入り込むことが許されたモンターグが出会ったのは,数々の書物を「1人1冊」ずつ暗記している「ブックマン」たちであった.ブラッドベリ火星年代記ジェーン・オースティン(Jane Austen)『高慢と偏見』,ニッコロ・マキャヴェッリ(Niccolò Machiavelli)『君主論』,プラトン(plato)『国家』――古今の名著を,高らかに斉唱するブックマン.彼らの登場により,モンターグが加担し炎上させてきた書籍の圧倒的悲しみは,浄化される.それは,「記憶」による伝承という普遍の価値の温存.記憶し,口伝するという最も原初的なアプローチで,学問・道徳・芸術が確実に受け継がれていくという頼もしさである.映画界の「新しい波」の一角を占めていたトリュフォーは,新旧のいずれにも属さない昂揚感――真実性――をもって,人間の生み出した至高物の不滅を訴えている.

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原題: FAHRENHEIT 451

監督:フランソワ・トリュフォー

112分/イギリス=フランス/1966年

© 1966 Anglo Enterprises,Vineyard Film Ltd

▼『未完の女』リリアン・ヘルマン

未完の女―リリアン・ヘルマン自伝

 スペイン内戦,第2次大戦,赤狩り‥‥荒れ狂う歴史の波に翻弄されながらも,自らの直感と正義を信じ,「劇的」かつ「熱狂的」に生きた女性劇作家の回想録――.

 メリカ演劇の開花期とされる1920年代の明朗な豊潤さに比べ,左翼運動が演劇に影響を与えた1930年代は陰鬱だった.リリアン・ヘルマン(Lillian Hellman)『子供の時間』(1934),『子狐たち』(1939)などは,「攻撃的知性」で同時代へのプロテストを示した作風だった.しかし冷戦下の1950年代初めには,ヘルマンの人生は暗転する.

 非米活動調査委員会は,彼女と長年にわたり恋人関係にあったハードボイルド作家ダシール・ハメット(Dashiell Hammett)が共産党員であることを見抜いていた.共産党員に加わっていなかったヘルマンは,赤狩り旋風に抵抗して情報提供を拒絶している.職を追われ,デパートの売り子をして糊口をしのいだヘルマンは,1960年代の戯曲と本書の成功により,作家としての地位を再確立することに成功した.

 25歳年下のピーター・フィーブルマン(Peter Feibleman)は,ヘルマンに対し友人,息子,恋人の役割をもつことになるが,ヘルマンの攻撃的で狡猾な面を指摘しながら,やはり彼女が魅力的な女性であったことを大いに肯定している.本書はヘルマンの自伝であり,率直に諸事実を記し,所感を隠さない.フィーブルマンの評価を裏付けるような叙述も満載.

 著名なアメリカ文学者,映画監督,ハードボイルド作家らとの交流で知性を磨き上げ,非公式の政治活動から,長期にわたってハリウッドの映画産業界のブラックリストに掲載されたことが取沙汰される生涯だった.しかし一私人,一女性としての惑いと怒りのエネルギーは,本書の回想の中だけで語られる部分も見過ごせない.尖鋭で狡猾,癇の強い劇作家の本書でしか確認できない顔ということである.

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Title: AN UNFINISHED WOMAN - A MEMOIR

Author: Lillian Hellman

ISBN: 9784582823387

© 1981 平凡社

▼『平静の心』ウィリアム・オスラー

平静の心 新訂: オスラー博士講演集

 21年間にわたるアメリカ滞在中に行った講演の中から15篇,また英国での講演から3篇を収録.「医学はサイエンスに支えられたアートである」と定義したオスラー博士の医の真髄を語る講演集.84年刊に次ぐ新訂増補版――.

 学関係者を中心に,「オスレリアン」と呼ばれる人々がいる.彼らは,アメリカ医学の開拓者ウィリアム・オスラー(William Osler)の思想と哲学に共鳴し,実践に努める.オスラーは,医学生,看護婦および実地医家に向けて行なった18回の講演を1904年にとりまとめて出版した.医師としての技術蓄積,それには不断の努力が不可欠であることを多方面から述べるとともに,病める人に全人的な癒しを与えるには,教養が重要であることを趣旨とする.

 本書は,オスラーの講演録である.エッセンスとして読み取れるのは,エピクロス学派の主張した知恵の理想〈アタラクシア〉,すなわち,平静不動の心境が安寧の必須条件とする思想であり,科学と人文学の修養が意義として医学者には求められる.「医学に携わる者は,毎晩寝る前の30分間,教養書を読みなさい」.聖路加国際病院には,オスラーの勧めを忠実に実行する敬虔なオスレリアンにより,<オスラー・ライブラリー>が開設されている.

人文教育の習得はわずかな時間と費用があればできる.日々の生活が決められた仕事でどんなに詰まっていようとも,皆さん方の一つあるいは十の能力を最大限に活かすためには,医学の実地教育だけで満足してはならない.学者に相応しい教育とは言わないまでも,少なくとも紳士たるに相応しい教育を受けるよう努力していただきたい.就寝前の三十分間本を読み,朝目覚めたときベッドサイドのテーブルの上に本が広げたままであってほしいと思う.一年のうちに読書量がどれほどになるかを知って驚かれることであろう

 ライブラリーとして,オスラー自身がリストアップした古今の教養書は10点.【1】旧・新約聖書,【2】シェイクスピア,【3】モンテーニュ,【4】プルターク『英雄伝』,【5】マルクス・アウレリウス,【6】エピクトテス,【7】『医師の信仰』,【8】『ドン・キホーテ』,【9】エマーソン,【10】オリバー・ウェンデル・ホームズ『朝の食卓』シリーズ.

 清廉潔白なオスラーとその賛同者を礼讃するだけでは,面白くはない.毒に欠けるというわけで,日本医師会日弁連に匹敵する職能/頭脳集団をもつ団体へと育て上げ,「入院してみて,はじめて患者というのはかわいそうな存在だということがわかったよ」と吐いた「日本医師会のドン」「厚相殺し」こと武見太郎の評伝(三輪和雄 『猛医 武見太郎』徳間書店,1995年)を併読すべき.

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Title: AEQUANIMITAS

Author: William Osler

ISBN: 426013552X

© 1983 医学書